『東京都同情塔』:自他の境界を規定する「言葉」について
九段理江さんの「東京都同情塔」を読んだ。当然ながらネタバレを含む。小さなネタバレと、感想と、自己解釈以外のものは含まない。ただ言いたいことを書き殴ったら、思ったよりも長くなった。以下はただの独り言でもいいのだけれど、もし読んでくれるなら、部分的でも良いのでどうぞよろしくお願いします。
あらすじ
東京に、「シンパシータワートーキョー」が建設される。建築家の女の人、こと「牧名沙羅」は塔建築のコンペに出場するために案を構想する。
「シンパシータワートーキョー」とは、新しい形の刑務所である。犯罪者はたいてい、犯罪を犯さなくてはならない環境のもとで生きており、「元被害者」であることが多い。このような同情されるべき犯罪者たちーホモ・ミゼラビリスーに対する差別や偏見を撤廃させるため、新たな建築であるこの塔の建設が決定したのだ。
牧名沙羅は構想する。「そもそもそれは本当に、建てられるべき塔なのか?」「牧名沙羅の心は、それを建てるべきだと感じているのか?」「いや、どうせ誰かが建てなければならないのなら、牧名沙羅がやるべきだ。知る限り、ザハ・ハディドへの回答を提示できる建築家は牧名沙羅しかいない。」
牧名沙羅と「言葉」
感想としてはめちゃくちゃ面白かった。これほどまでに内省させられる文章はこれまで出会ったことがない。この本に出会ったタイミングもまさに最高で、今年読んだ本の中では一番かもしれない。
一旦、考察を挟む。
ハードカバーの帯に「Q あなたは、犯罪者に同情できますか?」と書いてある。だがこの本の本題はそんなことではない、と私は思う。本書を象徴する2つの文を挙げる。
……でなければならない。……べきだ。それらの言葉は、牧名沙羅の外部が、牧名沙羅に言わせようとしてくる言葉ではないか?牧名沙羅の外部の言葉と、牧名沙羅の内部の言葉の、境界はどこだ?
この陸上世界を動かしているのは数学や物理が得意な人間じゃなく、口が上手い人間なんですよ。それで私もずいぶん痛い目に遭ってきたんだから。君は違うの?
牧名沙羅は言葉の使い方に非常に慎重な人間だ。彼女の頭の中には厳格な検閲者がいて、彼女の脳内の言葉を常に取り締まる。このように言葉を重んじる彼女が、なぜ建築家になったのかと問われるシーンがある。彼女は「支配欲が強いから」と理由を述べる。
何を支配するのか?牧名沙羅のパートナー?である拓人は「建築家の女の人が支配したかったのは現実そのものだったんだ。」と合点する。しかし一方で、彼女の独白では「それは自分を自分で完全に支配するために体を学習させた眠り方。」という文章がある。おそらくどちらも正解だが、私個人の読み方としても、牧名沙羅が本当に支配したかったのは自分自身だと思う。
牧名沙羅は語る。
私はあくまで、実際に手で触れられ、出入り可能な、現実の女でありたいということです。みずから築いたものの中に、他人が出たり入ったりする感覚が最高に気持ち良いのです。
社会通念を大きく逸脱する趣味嗜好を誰かに開陳したことはないが、私は陸上生物であるところのヒトを「思考する建築」、「自立走行式の塔」と認識している。
彼女は建築と人間を同一視している。とりわけ、自身の建造物には限りなく「牧名沙羅」を投影している。つまり彼女は建築することを通して、「言葉と現実をイコールで結びたい(=理想の自分を実現したい)」と考えているのだ。それが「現実の女である」ということであり、自身の外部と内部さえも他人が認め、称賛するという現実を建築によって実現したいということだ。
牧名沙羅の「外部」と「内部」
「外部」について
上記の引用を鑑みれば、牧名沙羅の外部とは、「理想の自分」であり「建築家としての建て前」だ。
拓人とのやり取りを引用する。
「牧名さんは、ホモ・ミゼラビリスのことをどう思ってるの?レイプ犯や殺人犯が幸福に暮らすための塔を、本当に建てるべきだと思う?」
「私に訊かれても困る。犯罪とは無縁の人生だったもの。意見する立場にない」「私にはわかるの。それについて一度でも口を開いたらきっと、言うべきじゃないことを言ってしまう。だから言わせないで。言うべきじゃないことを私は言うことができない。誰も傷付けるべきじゃない。私は私の言葉、行動すべてに、責任を取らなくてはいけない」
……私が今立っているこの場所が、ちょうど東京都同情塔のエントランスになります。塔の建設とともに開門される「同情門」から、秩序正しいプラタナス並木を通り抜けた先に、塔は全貌を現すことになります。
〜中略〜
彼らが塔を見上げたとき、内部・外部の両面から、人類の平和と人間の尊厳を実感する建築的体験を提供したいのです。
牧名沙羅は建て前しか口にすることができない。誰かを傷つける可能性のある言葉を、検閲者に禁止されている。そしてこれは拓人に言わせれば「見えた未来のヴィジョンをただ心の底から信じている」ようであり、「彼女の積み上げる言葉はAIの構築する文章に似ている」。
彼女は人を傷つけることが怖いのだ。おそらく彼女が昔恋人から傷つけられた経験によるものかもしれない。人を傷つけない理想の自分になりたいと願ったのだろう。実際に彼女は塔を建て、伝説の建築家となった。
「内部」について
一方で彼女の内部は、獰猛な獣であると容易に想像がつく。言葉で人を傷つける可能性が高いから、脳内の検閲者が言葉を取り締まる必要があるのだ。
しかしながら彼女の独白、地の文においても、ほとんど彼女の獰猛な一面は現れない。これは、読者に対しても自身の言葉を取り締まっているというメタ的で過剰な恐れと、自分自身に対しても「獰猛な考えを思考や言葉にしない」という恐れの2つがあるのではないだろうか。(私自身これは非常に理解できるところであり、どんなに厳重に鍵をかけたSNSや、紙の上に書く日記であっても、本音の本音は書くことができないのが私の性分である。)
ただ一箇所、彼女の本音が言葉に現れる部分がラストにある。
「もし私たちの鼻が交換できたら、」と言いかけたところで、私の内部の検閲者がしばらくぶりに目を覚ます。検閲者は警告音を鳴らし、「たとえジョークであっても他人の体臭について言及するべきではない」と言っているようだった。私の言葉を制しようとする検閲者に対して、私はすかさず脳内で答えるーしかし、このアメリカ人はもしかしたら、鼻や嗅覚を他人と交換する方法を知っているかもしれない。〜中略〜 可能になり、彼の幸福に貢献するはず。
検閲者は納得したように黙ったので、
「もし私たちの鼻が交換できたら、いくつかの問題が同時に簡単に解決するのに」と私は口にした。
ついに彼女が検閲者を論破したのだ。外部の言葉であるはずの建て前を使って。それは彼女の内部と外部の統制を破壊する行為であった。外部に出る言葉の検閲システムを、自己破壊したのだ。これは明確に塔の建設に伴った彼女自身の変化であり、
「既に私はもう、何かの外部にも内部にもいない。私自身が外部と内部を形成する建築であり、現実の人生なり感情なりを個々に抱えた人間たちが、私に出入りする。」という言葉にも現れているように思える。
彼女の内部を満たしているのは獰猛な獣だけではない。初めに引用した、序盤の長い自問自答の続き、
〜境界はどこだ?彼女の家の外壁はもうとっくに壊されていて、雨風を凌ぐことができないのでは?中が水浸しになって朽ち果てる前に、早く補修をしなければならない。それで、牧名沙羅の心はどこにあるんだっけ?
いや、これではいけない。
言葉を詰め込みすぎて重たくなった頭を左右からおさえる。頭の中でスカスカのカタカナがカラカラと転がって一ヶ所に偏り、互いを潰し合って形を失くしていく。
こんなにも多くの疑問符を抱えた人間によって設計されれば、塔は必ず倒れてしまうだろう。
多くの「疑問符」が頭の中を席巻している。簡単には答えが出ないからだ。疑問符に回答するたび、理想の自分に近づけると夢想する。成長していると誤認する。しかし実際はそうでもない、のかもしれない。
十四歳の数学少女だった頃からずっと、同じことを繰り返しているような気がしてならない。永遠に、質問と回答を行ったり来たり、明日なんてやって来ないみたいに、喋ったそばから言葉を積み上げ続けているみたいだ。
疑問符は途切れることなく私の内部を浸し続けて柱と梁を濡らすから、応答を考えなくてはいけなかった。考え続けなくてはいけないのだ。いつまで?実際にこの体が支えきれなくなるまでだ。すべての言葉を詰め込んだ頭を地面に打ちつけ、天と地が逆さになるのを見るまでだ。
この引用は、上記の「自問」に対する完璧な「自答」である。完全に対応したこの回答は本書の最後の文章であり、この上なく美しい締め方である。
死ぬまで自問自答を繰り返さなくてはいけない。これが彼女の出した回答である。東京都同情塔は新国立競技場に対する完璧な回答ではあったけれども、牧名沙羅は満足していない。同情塔はいつか、それ自体が「問い」になる。その問いに完璧に回答できるのは、牧名沙羅をおいて他にいないからだ。
さいごに
書きたいことを書き殴ったら、とても長くなってしまった。まだ感想と自己解釈をまともに書いていないのですが、これは次に回そうと思います。
こんな駄文を最後まで読んでくれた人がもしいたなら、ありがとうございます。部分的に読んでくれた人も、ありがとうございます。