【映画】「『リトル・ダンサー』と『ぼくのお日さま』」話
先日、復刻上映している『リトル・ダンサー』を観てきた。
初めて劇場で今作品を見たが、こんなにもすばらしい作品だったのかと感動した。
余談だが、最近復刻上映している映画を劇場で初めて観ることが多いのだが、総じてサブスクで見た印象の何倍も素晴らしくて、同じ作品だからこそ身を染みて感じる「映画体験」の段違いさに圧倒されている。
サブスクが便利なのは間違いないが、便利だからこそ、その映画の魅力が相当削がれてしまっているのも事実だ。
さて、『リトル・ダンサー』を観て、私は『ぼくのお日さま』が頭に思い浮かんだ。
『ぼくのお日さま』は個人的に今年観た映画でトップに好きな作品なのだが、『ぼくのお日さま』は間違いなく現代版『リトル・ダンサー』なのだと思った。
(これを執筆中に調べたら奥山大史監督は『リトル・ダンサー』をやりたくて『ぼくのお日さま』をつくったようで、なんだ、普通にそうなんだ、そりゃそうか、という気持ち。)
その情報を知らない人間に伝わったので、奥山監督の思いはちゃんと形になったということである。
というわけで、私の感じた『リトル・ダンサー』と『ぼくのお日さま』の共通点や相違点を書き記したい。
[共通点]
①光
ダンスのレッスン場とスケートリンク。
モヤがかかったような朧げな場内と窓から差し込む眩い光。本当に美しい。
②競技
バレエとアイススケートという、どちらかというと女性的なイメージのあるダンス競技。
③LGBT
競技からも伺えるが、大きなテーマのひとつであると思われる。
『リトルダンサー』では主人公の友人、『ぼくのお日さま』ではコーチ。
男性的なボクシングやアイスホッケーとの比較。
20年以上前の作品なので前者の方が露骨である。
わかりやすく暴力的な父親。バレエは女がやるものだという決めつけ。
バレエを力づくで止め、「男らしく」させようとする。
友達も、バレないように家の中だけで女装をする。
「女装をする」というものわかりやすく記号的ではあるが。
一方で、時代の進んだ後者。
あっけぴろげにはしないにしても、コーチと恋人は一緒に暮らし、買い物をする。
別に家族がアイススケートをやめさせようとはしない。
前者からはだいぶ時代の変化を感じる。(国の違いもあるだろうが)
しかし、家族での食卓で兄が、「普通にホッケーでいいでしょ」みたいなことを言ったり、女の子がコーチに「気持ち悪い」と言ったり、構造的で繊細な、決して埋まらない根底の価値観みたいものが見える。
もしかしたらこちらの方が切実かもしれない。
前者では家族の考え方がしっかり変わったが、後者ではそういう変化はない。
映画の作り自体が違うのもあるが、「時代」の中におけるLGBTの立ち位置が垣間見える。
④音楽に合わせた踊り
私が『ぼくのお日さま』で最も好きなシーンのひとつで、BGMに合わせた3人の踊りがある。
多幸感に満ちていて大好きなのだが、この映画の雰囲気としては異質なシーンだった。
それも、『リトルダンサー』をやりたいと知って合点がいった。
『リトルダンサー』でも音楽に合わせたダンスシーンが印象的で、こちらも大好きである。
⑤友達
いずれの主人公も、唯一の理解者ともいうべき友達がいた。
周りとの違いに悩みながらも、この友達がいたことで主人公は救われていたことは間違いない。
[相違点]
①家族観
『リトルダンサー』では主人公の家族が中心で、選択にガンガン家族が介入してきたが、『ぼくのお日さま』ではほとんど主人公の家族が介入する描写はない。
前者では「主人公ー家族ーコーチ」、後者では「主人公ー女の子ーコーチ」がメインで、「つながり」というものの形やベクトルの変化を感じる。
②結果や成功
『リトルダンサー』では最終的に主人公は結果を残し、成功を収めた。
まず、バレエの才能があって、エリート校に入学というのもそうだ。
一方で、『ぼくのお日さま』で主人公はそんなことにはならないし、結果も成功も何もない。
それでいい。そんなもの必要ない。そういっているように感じた。
③社会との関わり
『リトルダンサー』ではストライキを中心とした問題のある「社会」の中で生きていた。
『ぼくのお日さま』ではそういうものは描かれず、ただ「日々」を描いていた。
全体を通して、『リトルダンサー』は「記号的」、『ぼくのお日さま』は「現実的」であり、時代の中での変化を感じた。