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#3 神様だってcrazy

凝り固まった自分の考えがある時ふっと変わることだってある。そのきっかけは、案外身近に転がっているものだ。

ワクチン接種後3日目。
重たい身体がなんとなく動くようになったのでいそいそと大学に向かう。教職の授業を受けた後、ワクチン副反応の公欠届をもらいに教務課へ向かう。なんてことない金曜日。私の心は酷くどんよりとしていた。

先日、自分が原因で近しい間柄の人間を怒らせてしまった。経緯は省くが、100:0で私に非があった。非があることを言われるまで気付けないところが私の愚かな点である。痺れを切らしてもなお見捨てずきちんと叱ってくれる人間がいることに感謝してもしきれない。
叱られた原因は、自分の甘えと我儘さにあった。人より苦手なことの多い私は、人に頼ることで自分にないものを補ってきた部分が多い。甘えるスキルも人生には多少必要かもしれないが、甘え過ぎは厳禁だ。相手は私の苦手なことも出来るようにと匙を投げず懇切丁寧に教えてくれていたのだが、思うように出来ない苛立ちで私の方が先に匙を投げてしまっていた。そんなことの繰り返しの末、爆発させてしまったのだ。

出来ることが増えたとして、その次のステップが出来るとは限らない。失敗して自己否定のループに入ってしまうのが怖い。目の前の相手がいつ愛想を尽かしていなくなるかわからない。自分の可能性も相手の情も半信半疑のまま、持ち前の完璧主義に磨きがかかった結果の臆病さだった。中島敦の「山月記」に出てくる「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」とはこのことだろう。
仲直りは出来たものの、気持ちはどんよりとしたままだった。「変わる」とは言ったものの、ほんとに自分に出来るのだろうか?ゆっくりの速度とはどれまでなら許される?そもそも一度やらかし続けた人間に贖罪の余地はあるのだろうか。そんな堂々巡りの思考を持て余していると、4限の講義が始まった。

その授業は日本文学史というもので、日本の文学の成り立ちについて学ぶ授業だった。第二回のテーマとして日本の神話が記されている「古事記」を取り扱っていたのだが、この講義を聞いて私は衝撃を受けた。
「火の神を産んで自らが焼死」「自分に与えられた陣地が気に入らず駄々こねた結果下界へ追放」
「姉妹2人を娶るも容姿の美しい妹だけを手元に残し姉を送り帰した結果、一家揃って短命」
とんでもない意訳ではあるが、どの時代の神もなかなかにやらかしている。そして、この物語の全てがなんの気無しに丸く収まっているのだ。

この一節を聞き、私は心の憑き物が取れていく感覚に包まれた。神様ですらとんでもないやらかしを超えて逸話となる行動に移しているのに、人間の私が恐れるものってなんなのだろうか。私のちっぽけな不安やプライドなど、とるに足らないものだ。とりあえず、やってみよう。誰に諭されても腑に落ちなかったものが感覚として湧き上がってくる。きっとこの感覚が成長なのかもな、と思った。
 
凝り固まった自分の考えがある時ふっと変わることだってある。おみくじを引く時の他力本願時くらいしか神様なぞ信じていなかったけれど、今日、ほんの少しだけ神様に感謝した。

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