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「厳しさ」と「量」

先日、東京時代・がきんちょ時代に仲良くさせて頂き、今もなお東京でバリバリご活躍されている会社の先輩お二人と、久々に1時間ほどリモートで雑談させてもらいました。

特にテーマを決めていたわけではないのですが、

先輩お二人はそれぞれ異なるセクションのなか、それぞれのセクションを代表されるようなお二人なので、新入社員研修の講師として今年も講義をされたこと、

そもそも後輩想いの兄貴肌なお二人なこと、

ちょうど新入社員が入ってきて一か月経ったタイミングだったこと、

もあり、自然と、「後輩教育・育成」の話になりました。

ちなみに、僕は入社16年目。お二人は正確にはわかりませんが、おそろく20年目&21年目、とかだと思います。
(たしかお二人は一期違いだった気がします。)

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さて。

今回のタイトルは、その21年目の方の先輩の、以下のコメントから取りました。

「俺は、結局後輩の育成で大切なのは、『厳しさ』と『量』に尽きると思ってる」

後輩を育成するためには、どうしても仲良しこよし一辺倒では難しい。

また、ごくたまに指導する、とかではなく、ことあるごとに、しょっちゅう指導する、つまり、ある程度の量が必要であると。

…激しく共感したので、今回のタイトルにしたのですが、実は、それ以上に「たしかに!仰る通り!」と思ったのが、後に続いた先輩の下記言葉です。

「…でも、『厳しさ』と『量』には前提というか条件があって、それが、『孤独にさせない』ことやと思ってる」

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自分の過去を振り返ってみると。

先輩から、見方によってはパラハラと思いかねない、“厳しい”ご指導をして頂いていた記憶があります。
しかもそれが、ほぼ毎日、一日の中でも複数回。
とんでもない“量”だったように思います。

ですがその一方で、ほぼ毎日朝から晩まで一緒にいて、ほぼ毎日昼飯も一緒に食いに行って、ほぼ毎日夜一緒に残業して、飲みに行っていました。
間違いなく、あの頃は家族よりも長い時間を一緒に過ごしていました。

ほぼ叱られていて、ごくたまーに褒められる日々でしたが、“孤独”を感じたことはたしかになかったように思います。

「当時とは時代が違う」と言ってしまえばそれまでですが、令和4年、リモートワーク全盛の今とあの頃の違いを端的に言うと「孤独」だということな気がします。

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そりゃ、どこにいてもzoomを開けばつながれて、声も聞けて、顔も見れるんですが。

zoomの「退出ボタン」を押して打合せが終わった時の感覚と、

打合せが終わって会議室から皆で退室する感覚は、

僕のなかではどうあっても同じではないんです。

リモート会で、なんとなーく皆で「いいねいいね」と言い合って終わる会議と、

会議室で激論を交わして、時にはケンカまがいになって、お互い険悪なムードのまま会議室から自席にもどり、しばらく経ってからタバコ場で「さっきはごめんな」と言い出すタイミングをお互いに図っている、みたいな会議は、

僕のなかでは全くイコールにはならないんです。
前者は、長い目でみると決して「優しさ」なんかじゃない。

それこそ、このご時世では尺(スパン)が合わなかったり、効率的ではないのかもしれませんが。

誤解を招く表現かもしれませんが、長い目でみると、後輩への厳しさ=優しさであり、=愛だと思います。

先輩も後輩も、「長い目でみれるか」が大切なのですが。

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