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ゆがめられる教育~その3~

 前回のNOTEの記事(「ゆがめられる教育~その2~」)で、2006年の教育基本法改定が、教育に対する国の介入を容易にする契機となったことを書いた。

 

国による教育への介入が行われるわけ



 では、なぜ国は教育に介入しようとするのか?今回も『崩壊する日本の公教育 鈴木大裕 集英社新書(2024)』から学んだことを中心に少し書いてみたいと思う。

 鈴木氏によれば、国の教育への介入は、1983年から始まった中曽根康弘政権までさかのぼるという。中曽根首相は「個人のために国家がある」のではなく「国家のために個人がある」という価値観を社会に浸透させる手段として、憲法と連動性が高く、より改定しやすい教育基本法に目を付けた。

 鈴木氏はまた、「国家のために個人がある」と思っている人間が権力を握れば、子どもたちの自由な教育は、強くて豊かな国を作るための手段に変化してしまうとも述べている。

 つまり、我が国の教育は、子どもたち一人一人の成長や幸せのためではなく、強い国を作るための手段に変質してきているということだ。

 いわゆる「富国強兵」教育への方向性は、その後の自民党政権にも引き継がれ、政府によって着々と推し進められていく。

「富国強兵」教育の推進



 2006年の教育基本法改定では、「教育の目標」として、道徳心を培うこと、伝統と文化を尊重すること、愛国心や郷土愛を養うことが新たに設けられた。

 そして2011年の大津市のいじめ自殺事件をきっかけに、第2二次安倍政権では、道徳が評価を伴う「道徳科」に格上げされた。もともと、いじめ防止のために教科化されていたはずだった道徳は、いつの間にか愛国教育の手段と変質していったといえる。

 2021年には、高等学校の日本史の教科書検定で、朝鮮半島での「強制連行」が「動員」や「徴用」に書き換えられ、「従軍慰安婦」については、軍の関与を否定して「慰安婦」と訂正された。

 さらに小学校の教科書検定では、「伝統と文化の尊重、愛国心や郷土愛」の養成という新教育基本法の打ち出した観点が、各教科書会社を悩ませることとなった。

 ある教科書会社の読み物では「パン屋さん」が「和菓子屋さん」に書き換えられ、マチ探検の読み物を載せていた教科書では「アスレチックの遊具で遊ぶ公園」が「和楽器を売る店」に書き換えられてしまった。国は、何の問題もない読み物の細かい場面にすら、「不適切」という意見を連発したのだ。

教育をゆがめる権力への監視・警鐘の必要性


 政治は様々な形で教育に介入しようとする。それらが、教育基本法に謳われている「不当な支配」に当たらないのかどうか、権力を監視する必要があるし、民主主義を子どもたちに育てていく教育が失われないよう国の動向を注視する必要があるのではないかと思う。
 私たちは、国によって教育がゆがめられていくことに警鐘を鳴らし、声を上げていかなければならないと考える。


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