神田橋條治の治療思想と東浩紀による郵便論的世界 2


 
僕は、この事情を書きながら、現代思想の領域における哲学者東浩紀の「否定神学批判」を連想する。
 
つまり、否定神学というのは体系の外部にあって、だから、だれもそこに手を伸ばすこともできないし、それを「カタチ」(ファントム)として表すこともできないのだが、コミュニケーションすることができないのだが、しかし、それが体系全体を規定しているという、「否定的(ネガティブ)な外部」のことで、「…ではなく、…でもなく」という形で、規定される神々、あるいは超越論性のことである。
 
僕は、いちおう、「否定神学批判」の意図を自分なりに理解しようとするが、どのように「否定神学」が乗り越えられていったのか、という話になると、実際のコミュニケーションの中で、とか、複数の超越論性、あるいは移り変わる超越論性とか、けっきょくのところ、「臨床性」、現場、当事者という論理、…いや論理にするとまたそれも言葉や理論になるので、現場や当事者という言葉には回収できないような、全体的な、開かれた現場や当事者(こういう表現も否定神学的だが)のようなものになるだろう。文学や詩やその他の政治・文化的実践活動へと仮託するのも同様である。
 
僕が「移り変わる超越論性」と表現したのは、東浩紀さんの近著「訂正可能性の哲学」の「訂正可能性」という考えを一応念頭に置いてのことだ。
 
「訂正可能性の哲学」というものを僕なりに咀嚼してまとめると、他者、つまり「外部」にあるなにものか、あるいはこの世界を動かしているかもしれない規則やルールは、じっさいには、それが何であるのかを原理的理論的に決定することができない、だからそのような「超越論的なもの」を追求するのではなく、そのような試み、企図、それはもうあきらめ、しかし今現在生きている現実における認識や従っている規則などは、ぎゃくに、そうであるからこそ「過ちや誤解にしか見えない方向にすら」訂正可能性に開かれているので、そのような訂正可能性に向けて、自分の認識の焦点を切り替えていく他にない、と言ったものだ。
 
これはいっけん「相対主義的結論」に思えるが、そうではない。
 
もし、「訂正可能性」を認めないなら、たとえば「世界中の人は第一外国語としてエスペラント語を話すべきだ」、とか、「英語を話すべきだ」とか、「英語という普遍的な言語に近い言語にみんな合わせていくべきだ」とか、そういう結論を誰も否定できなくなる。さまざまなひとたち、さまざまな民族や宗教の人達が、「ばらばらな言語体系(巨大な言語ゲーム)」でコミュニケーションしているという事実、事態を「相対主義的な言語学的事態」などと批判するヒトはいないだろう。
 
電子マネーがあって、現金があって、預金があって、株式があって、ビットコインがあって、物々交換があって、贈与があって、さまざまな「交換体系」があるが、そのどれかに一元化していこうとする働きも、「効率化によってそのどれかに資源を集中しようとする働き・動き」も、「訂正可能性」の否定だ。訂正できる「選択肢」は多ければ多いほどいいのであって、どのような「交換手段」の中に移り変わっても、それらの「交換手段」が混ざり合っても、どのように「訂正」できるということが、訂正可能性だと思う。そして、「普遍的交換手段」というものはどこにもない。
 
僕は、この「訂正可能性」についての自分なりの考えを書きながら、今度は、「治療世界」における「訂正可能性」のひとつである「ドクターショッピング」が思い出されてくる。
 
どのような「医者」の診断や治療も、特権的なものではない。もっとも優れたものでもなければ、最も適したものでもない。医療の多様化が進んだ結果、そのような認識が広まったのか、ひとびとは、気楽にひとりではなく、複数の医療機関、複数の医者にかかるようになり、複数の治療を受けるようになった。これは、「標準的医療」だけでなく「代替的医療」の治療者を含めなければ、状況を俯瞰したことにはならない。これは患者側からの流れというだけでなく、「医療者側からの流れ」をも含んでいると思う。「自分の治療に合わないと思ったら時には別のお医者さんのところに行ってみなさい」というわけだ。
 
しかし、話が合流するのが、あまりにも唐突かもしれないが、これこそが、「治療的葛藤が生き生きとしたものではなく概念的・方法論的・マニュアル的に硬直した状況」における、そのような「葛藤」の「見える化」の一部なのである。
 
「ドクターショッピング」には明らかに問題がある。しかも、「治療の本質」に関わる問題がある。それは、「対人関係を、決まったヒトと決まった場所で、持続的に、連続して、築くことができない」という課題である。
 
ここで哲学者の東浩紀さんの「観光客の哲学」における「家族」の概念に行くのは、この文脈では唐突ではないと思う。つまり、「訂正可能性」に開かれた世界というのは相当「流動性の高い世界」であって、それ自体が、「そこに適応できる人とできないヒトとの間の剣客を広げ、分断を煽り、あるいは内戦を勃発させる」のだ。
 
僕は、東浩紀さんが「家族」という概念を採光しているのは、こういう「流動性の高い世界」への抵抗としてではないか、と自分なりには思っている。
 
つまり、家族は、仲が良くても悪くても、気があっても合わなくても、家族であり、一緒に住み、あるいは連絡を取り合い、冠婚葬祭を共有する。僕は、昨今、「家族関係はかなりの速度で崩壊しつつあり、不安定なものになっている」と思うようになって、「家族よりも親戚関係」のほうがいいのではないかと思っているのだが、「親戚関係」はさらに不安定なものであることは言うまでもないが。
 
これを「治療場面」に移すと、「仲が良い時には蜜月である」が「仲が悪くなると別の先生のところに行っちゃう」という、「自己肯定を求めたさまよい」の中で、まさに「見える葛藤」が「無き」世界になる(つまりごく単純な外的な解離」で解決するクセがついてしまう)。つまりここでは、「見えなくなった葛藤を少なくとも見えるものにしよう」という、ある程度は論理的であり得た「治療論」すらも成り立たなくなってしまう。「先生も先生の治療法も訂正します」では、「たくさんの優れた治療法に囲まれた部屋で依然として病気のままである患者」が生まれる。あるいは、そこまで厄介になると、「入院」して逃げられなくなり、ショッピングすらできなくなるかもしれない。「自分に耐えきれる治療のつまみ食い」でも、もう、構わないのだ、という「開き直り」の論理もありうる。そのときだって、「そういうものとしてそのひとの葛藤が『見える化』している」のだから。そして、これらの「葛藤」は『個人の内面の中で悩みきれるようなものではなかった』からこそ、「見えないもの」になったのだ。それが、最初に確認した、精神分析における葛藤概念の「概念化の歴史」というべきものだった。
 
葛藤は、「見えるもの」から「見えないもの」になった。それは医者の責任でもなければ患者の責任でもなかった。葛藤自体がそれほどに難しく厄介で複雑なものだったのだと歴史遡行的に確認できるだけである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?