見出し画像

俺も昔はそうだった


2023年4月3日(月)朝の6:00になりました。

休まない店は、好かれるんですよ。

どうも、高倉大希です。




「俺も昔はそうだった」

こんな言葉を聞くたびに、ひねくれた青年は「べつにあなたになりたいわけじゃないんだけどな…」と思っていました。


もしかすると、実際にその人とおなじ轍を踏んでいたのかもしれません。

ただ、仮にそうだったとしても、マウントをとりたがっているようにしか思えなかったのです。


そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。
ドミニク・チェン(2022)「未来をつくる言葉 わかりあえなさをつなぐために」新潮社


「俺が大丈夫だったから、きっとあなたも大丈夫」

こんな言葉を聞くたびに、ひねくれた青年は「あなたに何がわかるんだ…」と思っていました。


もしかすると、励まそうとしてくれていただけなのかもしれません。

ただ、仮にそうだったとしても、マウントをとりたがっているようにしか思えなかったのです。


わかりあえないというところから歩きだそう。湿潤で美しい島国で育った私たちには、それを受け入れることはつらく寂しいことかもしれない。「柿くへば」を説明することは、とても虚しいことかもしれない。しかし、おそらく、そこから出発する以外に、私たちの進む道はない。
平田オリザ(2012)「わかりあえないことから」講談社


「俺も昔はそうだった」

「俺が大丈夫だったから、きっとあなたも大丈夫」


ふたつの言葉の共通点は、「相手のことがわかる」という前提に立っているところです。

辛さがわかる。苦しみがわかる。

自身の経験と比較して、相手の辛さや苦しみを捉えようとしているわけです。


どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなけでばいけないんじゃないかと思っているわけです。なぜなら、今の社会に生きる人の正常の範囲は、現行で考えられている正常の範囲に比べると、拡がっていると考えなくちゃいけないからなんです。
吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


相手のことなんて、わかるわけがありません。

わかるわけがないのに、わかるという前提に立ってしまっているから、おかしなことになるのです。


きっと、悪意はありません。

悪意はありませんが、わたしたちは無意識に「自分との比較で相手のことがわかると考えてしまう」という心づもりはしておいた方がよいのかもしれません。






いいなと思ったら応援しよう!

高倉大希
サポートしたあなたには幸せが訪れます。