肌が綺麗すぎるという違和感
只今をもって「万華鏡」第7回の投稿を締め切ります。
次回予告は、明日18:00に投稿する「あとがき」にて。
どうも、高倉大希です。
映画を観ていると、数本に1本、違和感が残る作品に出会います。ストーリーがおかしなわけでも、演出がおかしなわけでもありません。ずっとこの違和感の正体がわからなかったのですが、最近になって「これだ!」と思う要素を発見しました。
それは、「役者さんの肌が綺麗すぎる」という違和感です。悪役との戦闘で衣装はボロボロになっているのに、肌が妙に綺麗です。劣悪な環境下で暮らしているはずなのに、肌が妙に綺麗です。役に対してあまりにも、キメが細かすぎるのです。
その点、『シン・ゴジラ』における市川実日子さんの役作りは、本当にお見事でした。ゴジラの生態を研究する生物学者の役だったのですが、「その人だったらたしかにその顔だよな」がドンピシャにハマっていました。
個性とは、身体そのものである。養老先生のこの考え方にはじめて触れたときは、衝撃を受けました。それこそまさに、個性とは心だと考えていたからです。
冒頭にも述べたように、近年はスキンケアが、ずいぶんと一般的になりました。毛穴なんて見えないに越したことはないと、思われるようになっています。
このような傾向は、何も肌に限った話ではありません。眉山は三角形に整えて、脱毛は全身コースが当たり前です。ついには鼻毛まで、ツルツルにする始末です。
美容に注力するのは大いに結構なことですが、その裏側ではたくさんの苦しみが生まれているのだろうなと思います。ものさしが画一化されるということは、どこかの誰かが排除されやすくなるということです。
スキンケアが一般化することで、肌荒れの悩みが深刻化します。脱毛が一般化することで、体毛の悩みが深刻化します。ほとんどの悩みは、そのときどきの「普通」によってつくられるというわけです。
よくもわるくもこの顔とは、死ぬまで付き合っていかねばなりません。だから、綺麗な顔ではなく、味のある顔を目指したいなと思います。しっかりと歳が刻まれた、誰にも再現できない顔です。