学校は「強制的な出会い」を提供してくれる場所である
2023年1月17日(火)朝の6:00になりました。
毎日、自分が読みたいことを書いています。
どうも、高倉大希です。
以前、こんな記事を書きました。
「興味の有無が入口にある限り、世界は広がらない」という記事です。
興味のあることはやる。興味のないことはやらない。
これだと、自分の興味の外側にある世界には一生触れることができません。
だからこそ「強制的な出会い」が大きな価値を生みます。
べつに興味はないけれど、友だちに連れられてロックバンドのライブに行った。
べつに興味はないけれど、先輩に薦められた漫画を読んだ。
そんな、自分の興味に関係のない出会いが、その人の世界を拡張してくれます。
そう考えると、学校は「強制的な出会いを提供してくれる場所」と捉えることができます。
学校ではさまざまな教科の学習をしますが、決して生徒たちがすべての教科に興味があるわけではありません。
国語に興味がある人もいれば、数学に興味がある人もいます。どの教科にも興味がないという人もいるでしょう。
ただ、それでよいのです。
どうも「興味がないことはダメだ」という風潮があるような気がするのですが、むしろ「興味がないことは前提」です。
知らないロックバンド、知らない漫画、知らない教科学習。
そんなものに、興味をもてるわけがありません。
強制的な出会いを経て、十分知ったあとに興味の有無を判断すればよいのです。
学級委員に立候補するのは、学級委員にもともと興味があるからではありません。
まずは立候補してみて、その上で興味をもつ努力をするのです。
隣の席の子に話しかけるのは、その子にもともと興味があるからではありません。
まずは話しかけてみて、その上で興味をもつ努力をするのです。
義務教育の終了と共に「強制的な出会いを提供してくれる場所」がなくなります。
それはつまり、個人の意思決定の重要性が相対的に高まるということです。
自ら「強制的な出会い」を求めて、興味をもつ努力をしなければ、世界は狭くなる一方です。