これまでの私
イタリア料理時代
公務員で貯めに貯めたお金で、イタリア留学。
この時、25歳。
帰国後は、イタリア料理専門の調理師として
働きました。
このイタリア料理時代が、実にキツかった💦
朝9時から夜23時まで勤務。
休みの日は、気づくと夕方まで寝ている…。
翌日出勤すると、昨日までいたキッチンの仲間が
居なくなっていた、ということもありました。
20代後半、人生でいちばん体力と精神力の限界を
感じていたころです。
結局、約2年勤務した後、退職。
初めてのパティシエ
同じ作る仕事として、次に選んだのは
パティシエという仕事。
勤務先として選んだのは、自然栽培野菜で有名な
『ナチュラルハーモニー』
ここで、デザートを担当させてもらいました。
前職が本当に辛かったので、
パティシエとして働くのは、
本当に楽しかった✨
いろんなお菓子を考え、試作し、
お客さまに提供する。
自分のペースでお菓子を作る時間は、
何よりもありがたいものでした。
私のお菓子の原点とも言える
ビスコッティが生まれたのは、このころです。
仕事中も家に帰ってからも、お菓子のことで
頭がいっぱいで、夜な夜な試作を繰り返すことも…。
テレビを観たりするより楽しいと思えました。
長野へ移住
パティシエをしていた旦那さんとの結婚を機に
長野へ移住。
知り合いの経営する佐久市のパティスリーを
夫婦で任されるようになりました。
長野は、空気も景色もきれいで、食べ物もおいしい
最高の場所。転居したことを心から喜びました。
ここで、旦那さんからフランス菓子の基礎を
教えてもらい、毎日お菓子作り。
しかし、東京のような価格でケーキを並べても
土地柄もあってか、なかなか売れません。
軽井沢と佐久では、客層がまるで違います。
1日の売り上げが1万円台という日もありました。
それでも、常連さんは付いてくれて、
私たちの励みとなってくれました。
そして、徐々に売り上げも安定してきました。
でも、楽しい時間は長くは続きません。
もともとホテルで総料理長をしていたオーナーは
旧軽井沢でフレンチレストランの経営もしており、
借金を繰り返していました。
じきに経営が立ち行かなくなり、私たちの給料が
遅れるようになったのです。
私たちは、子どもも欲しかったし、安定した生活を
送りたかった。
だから、長野へ移住した2年後、東京に戻ることを
決意しました。
辛い決断。私は今でも長野にいたことを思い出して
切なくなることがあります。
もう、15年以上も前のことなのに…。
「好きなこと」から離れた時間 へ、つづく…
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