7号食日記・その後①
7号食が終わってから 何日たったかは不明ですが
そこから部屋の片づけが いつのまにか進んで
昨年のお引越しで服、靴、本、そこいらの中でも
あふれかえってくるコートの類は ほぼほぼ少なくなった、
それでもまた目はそれらを探し、そうして冬の終わりには増えてくるそれら。
そして身長がぐんぐん伸びて あっという間にサイズアウトした子どもの洋服、それらの類いがごみ4袋分になって それをどさどさと処分した。
洋服って重たい。
紙、何も書かれていない紙、取っておいた紙の束も処分。
本も処分中。ありとあらゆる言葉への執着がすごい。
評を書いた本を捨てられない性分がすごい。
その分を書いたときの思い入れがすでに重たい。
重たいけど、もうそこには存分にエネルギーを投入して書いて
もう終わっている。
その本が目に入ると、瞬時に重い思い入れが ぐわっと来て、
そこにエネルギーを持っていかれてる。
しかし、評を書いた本でも たくさんの人に読まれている本
は、もうとっくにこの部屋にはない。
たくさんによまれているからいいか。と
いつのまにか処分しているのである。
あんまりこの本は、たくさんの人に読まれていないのではないだろうという
本が、
所有者のわたしの なんかわからん使命感、責任感?のような不思議なもののかたまりとなって 今も本棚に残りつづけているのだった。
めんどくさい。
本とわたしとでやりとりしてる、
そのエネルギー全部がうっとうしいわ。となって、
その本を捨てたのが 良くて、そこから気が楽になった。
本を処分したくらいのことで、
その本に世話になったことや、作者のこころもちを思いはかったこと、
その本に助けられたことは なくならない。
それは人間といっしょだった。
それから苦手だった本も処分した。
苦手な本をなんでいつまでも本棚に置いていたのかは不明だけど、
その本に線を引き、チェックをつけ、
その作者の最新作までもそのうち買おうかとどこかで思っていたりして、
きらいは好きの裏返しで、好きじゃないのは無関心というのは
あはははは あたっている。
その苦手な本には、わたしの見たくない、
わたしの中にもある部分が入っているのだろう。
けど、もうそこに使う時間はいいかなと思う。
まあまあたくさんの人に読まれている本だけど、わたしは苦手なのだ。
わざわざ苦行をしていいところをさがす必要は もうないのだ。
わたしの手におえない本も処分することにした。
手におえないんだもの。
それを見るたび、手におえないと思いながら置いておくのは
エネルギーを持っていかれすぎる。
わたしがわたしじゃなくなってしまう本や人とはいられない。
谷川俊太郎の、まっしろじゃなくってもいい。っていう
あの部分くらいで とどまっておられるのならいいのだけど。
谷川俊太郎のあの詩を思いだすくらいのところ。
そしてわたしは大切にしたい友だちの本をないがしろにしている。
なんというか、本のあれこれが
わたしの人間関係そのもののよう。
これまでは、
この部屋の出窓部分、そこにほぼほぼ本がどさどさと並べられて、
そこに書きそこね、書きかけ、それらの紙も加わって、そこいらが
もう目に入るたび 得体のしれない、そこにもエネルギーを持っていかれて
いたのだけど、そこの本をすべてのけて、
そこのカーテンを つけかえたところ そのカーテンが
こころにすっとするのだった。
そうなってくると窓をあける、少しの本だけ立てかける、
それでもまだまだ空間がある。
それだけで呼吸が ほっと深くなるのだった。