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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(11)

第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動

2、「隋亡命政権」への道


 始畢可汗の後押しを受け、名実ともに隋打倒の挙兵を果たした李淵りえんは、長安を制圧したあと、国内への大義名分の観点から、ひとまず煬帝の孫の一人を恭帝きょうてい【在位・617~618】として擁立します。

618年、煬帝が江都で側近の宇文化及うぶんかきゅう【?~619】らに殺害されます。訃報を知った李淵(以下、高祖)は、恭帝を廃して自ら即位し、ここに隋は滅び、唐が建国されました。

この直後、始畢可汗は唐へ遣使し、高祖は使者を大いに歓待しました。しかし、唐と東突厥の「蜜月の時」はすぐに終わりを告げます。それは、義成公主の行動が両者の友好にくさびを打ってしまったためだと、僕は考えます。

 義成公主は、唐の建国後も変わらず、隋に厚い忠誠心を抱いていました。それは、翌年に群雄の竇建徳とうけんとく【573~621】が煬帝を殺害した宇文化及を討った際、竇建徳から宇文化及の首級を送られて喜んだことからも分かります。


竇建徳 
不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で


また、竇建徳はこの時、宇文化及の手中にあった、煬帝の皇后・蕭后しょうこう【567~647】と孫の楊政道ようせいどう(恭帝の従弟)を救出しています。

このことから、僕は、東突厥服属下の群雄・竇建徳による宇文化及討伐は、「主君・煬帝の仇討ち」を名目とした「義成公主の命令」であり、わずかに生き残った煬帝の血縁者を保護する目的もあったと考えます。

しかし、この宇文化及の死が、新たな対立の火種となります。その火付け役となるのが、西突厥の曷薩那かつさつな可汗の存在でした。曷薩那可汗とは、先述のように、隋に臣従したのち、煬帝の高句麗遠征に従軍した人物です。

煬帝亡き後、宇文化及に従っていた曷薩那可汗は、宇文化及の敗北後、唐に服属します。元々、彼は隋に臣従して以降は長安に居住していたため、長安を制した高祖に従う道を選んだのだと思われます。

曷薩那可汗を受け入れた高祖は、彼を帰義王(異民族の首長に授けられる称号)に封じました。

このように、義成公主による宇文化及の打倒は、高祖にとっては、自らの兵を一兵も使うことなく大敵の一人が除かれたとともに、西突厥可汗の獲得という利益がもたらされました。

しかし、始畢可汗の側からは、高祖の曷薩那可汗の受け入れは、「東突厥に対する対抗勢力」として取り込んだようにも見えます。それは、かつての煬帝の対突厥政策と変わりがなく、高祖に失望してしまったと想像できます。

つまり、義成公主の隋への厚い忠誠心こそが、唐と東突厥の友好にひずみを生じさせてしまったと言えるのです。

間もなく、始畢可汗は唐へ侵攻しようとしますが、その矢先に突然急死します。跡を継いだ弟の処羅しょら可汗【在位・619~620】も、義成公主とレビラト婚を行いました。

その半年後、曷薩那可汗が長安で暗殺されます。東突厥が唐に殺害を迫り、高祖がやむなく承認したのです。直前には、隋の恭帝が高祖の命で殺害されており、これに憤った義成公主による報復だった可能性もあります。

恭帝の死は、「隋王朝の完全なる滅亡」を意味しました。煬帝を殺めた宇文化及を倒した義成公主にとって、今度は「恭帝を殺めた高祖」が新たなかたきとなったのです。


 そして、620年、竇建徳の下にあった、蕭后と楊政道が東突厥に迎えられ、前述の楊政道を隋王とする「隋亡命政権」が樹立します。

実は、突厥には隋の統一以前にも、「亡命政権樹立の前例」がありました。577年、隋の前身の北周が北斉を滅ぼした際、当時の他鉢たはつ可汗※1 が、北斉の亡命皇族・高紹義こうしょうぎを「北斉皇帝」に擁立し、北周打倒を誓ったのです 。

ところが、他鉢可汗はその後、北周からの千金公主(のちの大義公主)の沙鉢略さはつりゃく可汗※2 へ降嫁を条件に、北周と和睦してしまい、引き換えに高紹義は北周へ連行され、北斉亡命政権は潰えてしまいます。

2つの亡命政権の人口を比較すると、平田陽一郎氏によれば、北斉亡命政権の「衆三千家」に対し、隋亡命政権は「徒一万」とされ、付き従った官僚・知識人の多さからも、後者の方がより後継政権の正統性の高さが伺えます。

また、この頃の東突厥は、新たに服属下の群雄と「婚姻関係」を結ぶようになります。反対に唐は、東突厥から通婚を求められなくなり、北周や隋が行ってきた、従来の公主降嫁による東突厥との和睦が不可能となりました。

それは、義成公主の「唐との決別」の決意の表れとも言えます。義成公主が唐との通婚を阻んだのは、高紹義の先例のように、楊政道が降嫁の引き換えに唐へ連行されることを阻止する狙いがあったとも考えられます。

隋亡命政権とは、義成公主の、啓民可汗以来の三代に渡る可賀敦としての絶大な権威を最大限活かした、「故国・隋の再興という唐への挑戦」だったのです。


年表8


(次回へつづく)



※1 以下を参照。

※2 大義公主と沙鉢略可汗については、第一部を参照。

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