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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(番外編4) 

第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動

🟥 房玄齢編 Ⅳ、


(※ 本編14回(固定済み)を先にご覧ください)

 626年、房玄齢が5年の歳月をかけて計画したクーデター・玄武門の変が成功し、ついに太宗・李世民が即位しました。第一等の功績者とされた房玄齢は、杜如晦とともに、実質的な「宰相の権限」を与えられました。

その後も、房玄齢は杜如晦とともに、太宗の治世・「貞観じょうがん」(貞観は元号、627~649)を二人三脚で支えていきました※1。その様子を、史書はこのように伝えています。

房玄齢ははかりごとけ、杜如晦には決断力があった。二人は深く気が合って互いに助け合い、心を同じくして国へ尽くした。だから、唐代の賢明な宰相を称えるときは、房玄齢と杜如晦を第一とした。

『資治通鑑』

また、文学にも精通した房玄齢は、太宗から「歴史書の編纂へんさん」を命じられました。その中の一つが、643年に完成した「高祖の伝記」です。そこには玄武門の変の記述も含まれていました。

中国では、王朝交代の度に、前王朝の歴史書が編纂されてきました。そして、この太宗の時代以降、その編纂はそれまでの個人事業から、「国家事業」へと移りました。

実はこの頃、太宗もまた、自身の息子たちの「後継者争い」を抱えていました。太宗は、歴史書を編纂し、それを通して、自らが経験したむごい骨肉の争いの事実を正しく伝えることで、子孫へのいましめとしようとしたのです。

ですが、歴史書の国家事業化は、同時に「公的な史実の隠ぺいを堂々と可能にした」とも言えました。

完成した高祖の伝記を読んだ太宗は、玄武門の変の事実が大きく「改ざん」されていることに気づきます。そして、房玄齢に改ざん箇所を削除して、事実をその通りに書き直すよう命じます。

その内容は、後世に書かれた旧・新唐書などと同様に、まず人物設定は、李建成と李元吉の側を一方的に「悪」とし、太宗・李世民を「完全な正義」に描いたと思われます。

そして、改ざん箇所の筋書きは、「太宗には、天下を取ろうとの野心は微塵もなく、李建成らにその身をおびやかされ、自己防衛のためにやむなく彼らを成敗した」という、太宗をあくまで「受け身」とする形だったと推測します。

即ち、「高祖の伝記における玄武門の変の改ざん」は、太宗の指示ではなく、「房玄齢が独自に行ったこと」でした。

しかし、房玄齢は太宗から、これまでに歴史書が皇帝に献上された例がない理由を尋ねられた際に、以下のように答えています。

「史官は史実を虚飾することはせず、悪を隠しません。もしも皇帝がこれを見れば必ず怒ります。そのため敢えて献上しないのです」

『資治通鑑』


では、房玄齢は、高祖の伝記に限っては太宗に献上するため、 やむを得ず信条に反して「忖度」した表現に改めたのでしょうか。また、太宗は本当に改ざんを全く望んでいなかったのでしょうか。

4回にわたった「番外編・房玄齢編」は、最後に太宗と房玄齢、「それぞれの玄武門の変への眼差し」と「後世に名君と称えられる太宗の真の姿」を考えて、締め括りたいと思います。


 太宗は、先述の玄武門の変の改ざんを指摘した際、自身のクーデターをこのように評しました。

周公しゅうこうは、かんさいちゅうして周を安泰とし、季友きゆう叔牙しゅくがを毒殺してを存続した。ちん(私)の行いは、このたぐいだ」

『資治通鑑』


 周公こと周公旦しゅうこうたんは、周王朝の初代国王・王の弟で、季友は、周公旦の息子を初代とする魯国の王子でした※2。両者はともに、謀反を企てた兄や弟を討って国家の安泰をもたらした、王室出身の古代の名宰相です。

周公旦
王琦 , Public domain, via Wikimedia Commons


特に周公旦は、周建国の直後に亡くなった兄・武王の意思を「継承」し、幼い跡継ぎの摂政せっしょう※3 として、周王朝の基礎を築きました。彼は、のちに儒教を開いた孔子(魯の出身)から、「理想の聖人」と評されました。

このことから、周公旦らに自身をなぞらえた太宗の「クーデターの目標」は、新たな国家の創業者ではなく、既存の「高祖の唐」を継ぐ「継承者」となり、既存の唐を盤石化することにあったと考えられます。

 一方で、房玄齢のクーデターの目標は、番外編3で述べたように、高祖の唐をリセットし、「太宗を創業者とする新たな唐帝国」を築くことでした。両者はそれぞれ、「クーデター達成後の国家像」が異なっていたのです。

その背景は、太宗には高祖の唐の初期を支えた「功績と自負」があったのに対し、初めから太宗の幕僚として仕えてきた房玄齢には、高祖の唐への「思い入れがなかった」からでした。

そして、太宗を創業者と位置付けたい房玄齢は、太宗から命じられた歴史書の編纂という国家事業を用いて、「新たな唐帝国創業の物語」を自らの手で作り出そうとしたのだと、僕は想像します。


玄武門の変の事実を、後世の教訓としようとした太宗は、「兄弟殺し」と「父から帝位を奪う」形で自身が即位したことに「負い目」を感じていたと言えます。

しかし、房玄齢の構想では、太宗を「新たな唐の初代皇帝」に置くことで、その行動を全く異なる見方に変化させます。

即ち、まず高祖を「前王朝の皇帝」、李建成と李元吉を「前王朝の宗室の謀反人」という立場に置き換えます。

これにより、太宗の行動を、「前王朝の宗室の謀反人兄弟」を倒し、「前王朝の皇帝・高祖」から禅譲を受けて正式な手順で即位したという、新国家の創業者に相応しい、「大義名分と輝かしい業績」へと転換できるのです。

房玄齢の行った改ざんは、太宗とその周囲の立場を変えて、「史実を虚飾することはせず」に、太宗の天下取りへの野心を否定し、名誉が守られる有利な形に置き換えるという書き換えでした。

それは、単なる主君への忖度だけではなく、房玄齢の「太宗を創業者とする新たな唐帝国を築く」という生涯をかけた夢を正当化し、後世に書き残したいとの、「個人の願いの反映」でもあったと、僕は考えます。

ですが、太宗を初代皇帝とすることは、父・高祖に対する謙虚さを欠くことになり、また、太宗が高祖の唐を支えた功績を「前王朝時代の出来事」として軽視することでもありました。

 そのため太宗は、周公旦や季友の名を持ち出し、「自分はあくまで高祖の唐の継承者」であることを房玄齢に伝え、「周公旦らになぞらえた継承者像」に訂正することを求めたのです。


しかし、後世になると、太宗が周公旦になぞらえたことを疑問視する声が出てきます。12世紀に儒教の新派・朱子学しゅしがくを開いた、南宋なんそうの儒学者・朱熹しゅき(朱子)です。朱熹は、次のように太宗を鋭く批判しました。

「太宗の行いの一切は、仁徳の人を装い、正義の名を借りて、私欲を行っただけだ。(・・・)(兄弟の殺害は、)周公は周の天下のためにやむなく行ったのに対し、太宗は私欲のために兄弟と天下を争ったのだ」

朱熹『唐総論』
朱熹


朱熹の言う通り、帝位を奪って即位した太宗が、自らは国王にならず摂政に徹した周公旦になぞらえることは、かなり無理がありました。

そもそも、周公旦は謀反を起こした兄弟を討伐したのに対し、太宗の場合は、むしろ太宗の方が、既に次期皇帝となることが確定していた兄を倒した、「謀反を起こした側」でした。

太宗の行為は、朱熹のような儒学者から見て、儒教の説く「仁」(私欲を抑えて万民を愛する)や「義」(私利私欲にとらわれず、人として為すべき正しい行いをする)の道に反する、「反儒教的な行い」そのものでした。

とは言え、本編14回で述べたように、太宗のクーデター決行には、「東突厥との全面戦争を回避したい」との思いもあり、必ずしも私欲のためだけに行ったとは言えないと思います。

また、かつて煬帝は反乱を起こした弟・楊諒を助命しました。朱熹の思想は、「太宗の場合も兄弟の命まで奪う必要があったのか」という問いも投げかけていました。

振り返ると、楊諒の乱の頃の隋は、中華統一から既に15年が過ぎ、東突厥との関係も良好で、内外政ともに安定していました。

他方、玄武門の変の時の唐は、いまだ群雄を平定し切れておらず、東突厥の侵攻も繰り返される、乱世の中にありました。また、翌年には高祖の旧臣らの反乱も起こりました。

李建成らを助命しておけば、いずれ誰かに担ぎ上げられて、今度こそ帝位の座を奪還すべく、本当に謀反を起こす可能性もなくはなかったのです。

そのため、太宗は、クーデターという聖人に適さない手段を選んだことを「子孫への教訓にすべき悪例」としつつも、周公旦になぞらえて私欲という反儒教的な野心を否定し、その行動自体は「肯定」しようとしたのです。

それは、太宗自身もまた、玄武門の変を「自分の正当化のために改ざんしたいと望んでいた」ことを意味しました。房玄齢に先の訂正を求めたのは、あくまで「改ざん行為自体に反対した」わけではなかったのです。

言わば、房玄齢の描いた太宗像が「太宗自身の思い描いていたイメージとは異なっていた」ため、「自分の理想とするイメージへの改ざん」を命じたのでした。

そして、最終的に完成したのが、現在に伝わる、次のような「聖人君主の太宗」像でした。

初めに「凡庸ぼんような初代・高祖」に挙兵を促して、これを支えた。やがて、唐の安泰を乱そうとした「傲慢ごうまんで無能な兄・李建成」らを、儒教の聖人・周公旦にならって討ち取り、既に皇帝の地位に疲れた高祖から帝位を譲られて、やむなく即位した。


この内容が、当初の改ざん箇所と変わった最大の訂正は、太宗が李建成らを討ったことを、「受け身」ではなく「自発的」とした点です。太宗は「聖人」として、「自ら戦う意思を見せ、悪の李建成を成敗した」のです。

つまり、後世に残された太宗の姿は、房玄齢が下書きをして、太宗の考えを取り入れて完成させた、房玄齢と太宗の合作による、「作り上げられた聖人皇帝」の姿だったと、僕は考えるのです。


 とは言え、ねつ造した姿を後世に残したというだけでは、太宗が今日まで「中国史を代表する名君」として語られるはずはありません。

太宗は即位後、国政面では臣下の諫言かんげん※4 をよく聞き入れて自らを律し、厳格な法律を廃して臣民を労りました。また、私事では、父・高祖(上皇)の元へ度々通って「父子の情」を温め直そうとしました。

つまり、歴史書の編纂が始まる前から、「人としての正しい行いを心掛け、仁愛の心を持つ」という、儒教の教えを実践していたのです。そうした太宗の姿は、帝王学の教科書とされる『貞観政要じょうがんせいよう』へとまとめられました。


太宗のろう人形
ゲイリー・トッド(中国・新正市), CC0, via Wikimedia Commons


太宗が後世の子孫に残そうとしたのは、反面教師的な骨肉の争いの姿ではなく、むしろ、努力して「模範的な皇帝を目指した実践行動」の姿の方でした。

唐の太宗とは、「名君」でも「名君を偽った暴君」でもない、「理想とする儒教的な聖人君主を追い求め、「名君と呼ばれるに値する皇帝」を演じようとした君主」だったのです。

そして、それは房玄齢をはじめ、太宗と強固な主従関係で結びつき、それぞれの分野で才能を遺憾なく発揮した、優れた臣下たちの影の支えなくしては、決して語れないものでした。

(本編15回につづく)



※1 杜如晦は630年に死去。
※2 周公旦は紀元前11世紀、季友は前7世紀の人物。
※3 君主が幼少や病弱の場合に、君主に代わって政務を行う役職。
※4 臣下が主君をいさめること。

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