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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(10)

第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動

1、「太原起義」の立役者


 626年6月4日、唐の首都・長安で起きたクーデターにより、唐の初代皇帝の高祖こうそ李淵りえん【566~635 / 在位・618~626年】の次男、李世民りせいみん(二代・太宗たいそう)【598~649】が後継者争いを制します。「玄武門げんぶもんの変」です。

この政変について、石見清裕氏は、

「(従来は)国内問題の視点からのみ考察されてきたが、その背景の一要因として、そこに投影されている突厥問題をも認識する必要がある」

(「唐の北方問題と国際秩序」石見清裕,1996)

とされています。

実は当時、東突厥では義成公主の主導の下、煬帝の孫・楊政道ようせいどう【618?~650頃】を「隋王」に擁立した、「隋亡命政権」が樹立していたのです。

 第三部では、「新王朝・唐」と「「旧王朝・隋」の再興を掲げる東突厥」という対立を主軸に、生き残りを懸けた「中華帝国 対 東突厥」の最終決戦とその結末を見届けます。




 玄武門の変より、さかのぼること9年。煬帝の高句麗遠征の失敗を機に、各地で隋打倒を掲げた群雄が続々と決起する中、617年に挙兵したのが、煬帝の母方の従兄いとこにあたる、唐公とうこう※1・李淵でした。


隋宗室・唐宗室系図 ※2



前述の雁門がんもん事変の後、その舞台となった太原たいげんで、東突厥への防備に当たっていた李淵は、息子・李世民らの勧めにより挙兵を決意します(太原起義きぎ)。そして、まず、東突厥の始畢しひつ可汗と和睦わぼくし、援軍を得ることに成功します。

しかし、李淵挙兵の直前まで、始畢可汗は太原の近隣への侵攻を繰り返し、隋側だった李淵と何度も交戦していました。なぜ、始畢可汗は突然、李淵と手を組み、支援を約束するという方針転換をみせたのでしょうか。


 この時期、東突厥の下には、華北に割拠する群雄らがこぞって、「みな北面して(東突厥の)臣と称し、その称号を受けた」とあります(隋書『突厥伝』)。

始畢可汗は、李淵をはじめとした群雄らを形式上、臣従させた上で支援していました。そして、彼らに援軍を送る代わりに、戦闘で得た財物を見返りとして得ていました。

他方、齊藤茂雄氏によれば、「群雄側からすると、突厥の称号を得ることは突厥から援助を得た印であり、権威付けに大きな意義があった」とされ、称号の付与は、「群雄たち(の側)が突厥に対して認可を求めた」のでした。

また、それは群雄たちが東突厥の可汗を、「隋皇帝に対等に対抗できる唯一の存在」として認識していた証拠でもありました。

即ち、隋と決別して以降の始畢可汗は、服属下の群雄らと、このような「相互互恵の関係」を結ぶことで、東突厥の独立を保ってきたのです。


 そして、その中で始畢可汗が、「次代の中華を治める最高格の可汗」に推す存在として賭けたのが、李淵でした。当時、李淵は太原にて留守りゅうしゅ(地方で皇帝の代理を委任される高官)の任にあり、群雄の中で最大の大物でした。

しかし、隋と決別した始畢可汗に対し、当初の李淵は、表向きは「煬帝への忠誠」をうたっていました。

李淵は、その挙兵にあたっても、「煬帝から高句麗遠征の命があった」と偽って兵を集めました。始畢可汗に援助要請した際も、挙兵の名目を、「遠く主上(煬帝)を迎えるため」と称していました(資治通鑑)。

この頃、煬帝は華北の騒乱を避けるべく、南方の江都こうと(現・江蘇省)に滞在していました。李淵はこの状況を利用し、自らの軍事行動を名目上、あくまで「煬帝の救援目的」として正当化しようとしたのです。

一方、始畢可汗は、李淵の援助要請に対して、「煬帝を迎えれば、お互いに煬帝に殺されることは疑いない」と警告した上で、このように返答します。

「唐公(李淵)が自ら皇帝となるならば、労苦をいとわず、兵馬を支援しよう」

(資治通鑑)


返答を受けた李淵は悩みます。李淵がこれまで「煬帝の救援目的」を一貫して主張してきたのは、挙兵を決意してもなお、「隋との完全な決別」に踏み切れなかったためでした。

群雄のほとんどが庶民出身で、煬帝の事業に長年不満を抱いてきたのと違い、名門出身で隋の国公という高位にあった李淵には、そもそも隋に対する憤りが乏しかったからです。

しかし、部下の説得を受け、ついに東突厥と結び、始畢可汗の条件を吞むことを決断します。それは東突厥に対して、 明確に「隋の打倒を宣言」したことをも意味しました。

先述のように、始畢可汗が当初と異なる方針転換を採ったのは、李淵が始畢可汗の条件を受け入れ、正式に両者が「隋打倒という共通のスローガン」で一致したことによるのです。

始畢可汗の「皇帝になれ」という一言によって、李淵の揺らいでいた決意が固まり、ここに次代を担う覇者が誕生しました。つまり、唐の高祖・李淵とは、始畢可汗が世に生み出し、作り上げた英雄だったとも言えるのです。


高祖・李淵 <User Kellerassel on de.wikipedia, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で


これが、東突厥の視点からみた「太原起義の実像」です。李淵に挙兵を勧めた李世民が「唐建国の表の立役者」であるならば、始畢可汗は「唐建国の裏の立役者」と言っても過言ではないと、僕は思うのです。

(次回へつづく)



※1 隋・唐代の臣下の最高格の爵位である「国公」の一つ。
※2 独孤信【502~557】・・・北朝の西魏・北周に仕えた匈奴系の武将。北
   魏の時代、独孤氏・宇文氏・楊氏・李氏はともに、
   武川鎮軍閥ぶせんちんぐんばつ関隴かんろう集団)と呼ばれる貴族集団に属した。


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