「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(13)
第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動
4、煬帝を承く者
唐の皇太子・李建成が、後継者の座を脅かす弟・李世民に疑心を抱いた二つ目の理由は、「李世民の地方政権の急成長」です。
唐の諸侯王・秦王であり、洛陽の総督だった李世民は、洛陽に自らの幕府(地方官の役所)を開くことを許可されていました。以下、この幕府を「李世民政権」と呼びます。
長安に居た李世民が洛陽への赴任を命じられたのは、李建成との不測の事態を案じた高祖が、兄弟を引き離すために取った措置でした。この時、李建成は高祖に次のように訴えました。
この発言の通り、李世民政権の構成者の多数を占めたのが、旧北斉領で洛陽に近い、山東(現・山東省)の豪族たちでした。
山下将司氏によれば、彼らは「いずれも(隋末)当初、反乱勢力側ではなく、むしろそれを鎮圧する側に立っていた」人々で、生き残りをかけて従属先を変えていき、最終的に623年に山東地域を平定した李世民に従います。
彼らがあくまでも、高祖ではなく李世民に従属した背景には、高祖の下には太原起義(高祖の挙兵)から付き従う「旧北周の出身者」が多いことがありました。
北斉の滅亡(577年)後、北周の統治下で冷遇された山東豪族たちは、転機となった隋の建国に尽力しました。しかし、唐代に入っても、高祖から「山東の人間」と蔑まれるなど、北周人と「差別化」されたのです。
北周人で構成された「長安政府」に対抗心を抱く山東豪族たちは、次第に李世民の擁立を画策し始めます。
そこで、彼らが李世民擁立の大義名分としたのが、李世民の持つ「煬帝の義理の息子」という肩書だと、僕は思います。実は、李世民の側室の一人・楊妃は、「煬帝の娘」でした。
後年、李世民は煬帝の作った詩について、「その性質は俊才である」と評し、このように述べています。
本来ならば全面的に貶めるべき前王朝の君主を、行いは否定しながらも、その性質や才能を評価したのは、李世民に「煬帝を完全に否定できない事情」があったためだと、僕は推測しました。
また、山東豪族出身で李世民の第一の側近・房玄齢【578~648】は、玄武門の変の直前に李世民にクーデターを促すにあたり、「まさに大業を承くべし」と述べています(資治通鑑)。
この大業とは、煬帝の治世の元号・「大業」※2 と取れるほか、「煬帝の後継者となれ」という意味にも解釈できます。
隋の治世に貢献した山東豪族たちは、「煬帝の義理の息子」である李世民を「隋の真の後継者」として祭り上げることで、「隋からの禅譲」という大義名分を持つ、高祖の長安政府に対抗しようとしたと考えられます。
このことから、李建成が李世民を警戒した真意は、皇太子の座を脅かされることを恐れたというよりも、「東突厥の突利可汗と組んだ李世民政権が長安の中央政府に取って代わること」を恐れたのだと、僕は考えます。
やがて、高祖もまた、次第に李世民を警戒するようになります。ここに、玄武門の変へと至る宗室内の対立は、「李建成 対 李世民」の兄弟の対立から、「高祖・李建成 対 李世民」の対立へと変貌します。
そして、さらにその根底には、「高祖・李建成を支持する旧北周派閥」と「李世民を支持する旧北斉派閥」という、臣下たちの権力闘争が内在したのです。
前回書いた、李世民が突利可汗に「隋亡命政権の不支持」を要求したことも、隋亡命政権の主・楊政道はもちろん、父・高祖も含めて、「自分以外の隋の後継者を認めない」という姿勢の表れだと捉えることもできます。
突利可汗もまた、煬帝の娘を妻としていた一人でした。李世民と突利可汗は、そもそも義兄弟の契りを結ぶ以前に、既に「本当の義理の兄弟」だったのです。
李世民は離間策によって、突利可汗を、「国家から地方の統治を任されながらも、親族間で孤立している」という、自身と同様の境遇に置きました。
そして、突利可汗と結ぶことで、従来の東突厥との「君臣的な関係」に代わる、「両者が対等な擬制兄弟関係」を、正統な隋の後継者を謳う李世民政権と、同じく煬帝の義理の息子の突利可汗との間に誕生させたのです。
山東豪族からの支援、そして突利可汗との同盟を機に、李世民は彼らの存在を利用して、自身が「中華を治める最高格の可汗」として君臨する未来を現実的に描き始めたのです。
(次回へつづく)
※1 堯と舜は古代中国の伝説上の名君。桀は実在する最古の王朝・夏(紀元前21世紀頃~前16世紀頃)、紂は殷(前16世紀頃~前1046)のそれぞれ最後の君主で、暴政を行い、美女に溺れて国家を滅ぼしたと伝わる。
※2 605~618年。