スイスイ ー道場を経営する(六)ー


夏の思い出

 
 私は泳げない。

 子供の頃は、夏が来て、体育の授業が水泳になる度に憂鬱だった。

 見かねた親が、泳げない子を対象にしたスイミング教室に連れて行ってくれた事がある。

 一月程通ったが、泳ぎの方は何一つ進歩しなかった。

 今でもあの時の事はハッキリ覚えているが、インストラクターのお兄さん(大学生のアルバイトか何かだろう)は、既にある程度泳げる子達に付き切りで、ビート板だけを与えられた私はプールに放置されていた。

 つまり、(私がブラジリアン柔術〔BJJ〕を始めた時と同様に)誰も何も教えてくれなかったのである。

 世の中の大半の人が、(速い遅いは別にして)ある程度「泳げる」という事実に鑑みれば、私もごく基礎的な事でいいので「泳ぎ方」のコツさえ教えてくれる人がいれば、少しは泳げるようになったかもしれない。

 教える側としては、覚えの悪い子より、覚えの良い=自分の教えた事を速やかに吸収して上達する子の方が教えていて楽しい、という気持ちは(今ならば)分かる。

 だが、あの夏に、ビート板ひとつでプールに投げ出されて、必死にもがき苦しんだ(挙句、全く泳ぎが上達しなかった)忌まわしき思い出のせいで、私は泳げるようになりたい!という意欲そのものを失ってしまった。

 だから、私は上京してから今日に至るまで、夏に海やプールに行った事が一度もない。

夢と現実の落差


 たまたま(あるBJJ実践者の方の)ブログを読む機会があったが、そこには「いつか自分が身に付けたテクニックを教えるクラスを持ちたい」という夢が書かれていた。

 そうした夢を持って練習に励むのは、大変素晴らしいことだと思うが、彼(ないし彼女)が念願叶って自分のクラスを持てたとしても、初回のクラスで夢と現実との落差に打ちのめされるのではないかと危惧している。

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