坂の上の雲

1 明治維新から太平洋戦争の敗北に至る日本の歴史について、「明治日本は維新以降日露戦争までが上り坂で、日露戦争の勝利で奢り高ぶって、それ以降は坂を転がり落ちるように支那事変に突き進み、ついには太平洋戦争で破滅した」という見方がある。こういう見解を、司馬遼太郎が「坂の上の雲」を始めとする彼の著作で示した事から俗に「司馬史観」と呼ぶ。
 確かに、明治日本の辿った歴史的経緯を見ると、日露戦争でロシアに勝利した事で曲がりなりにも欧米列強のひとつに数えられるようになったし、盧溝橋事件に端を発する支那事変以降日本はポツダム宣言の受諾に至るまで、打ち続く戦争で国力をすり減らしていったのは事実だろう。
 だが、「司馬史観」には以前から私は疑問があった。ひとつには、第一次世界大戦に参戦し、青島でドイツ軍に勝利し、戦勝国に名を連ねた事実をどう評価するのかという点が抜け落ちている。もうひとつ、日露戦争での勝利が物量に対する過剰な精神力優位の思想を生み、その後の日本陸軍の伝統となったと言われるが、それでも第二次世界大戦でのインパール作戦や島嶼部での各種玉砕戦に代表されるような兵站を著しく軽視ないし無視する軍の作戦思考様式の説明としては不十分だと思っていた。
 青年期に「坂の上の雲」を読んで感じたそうした「分からなさ」ないし「割り切れなさ」を抱いたまま今日まで来たが、先日片山杜秀先生の「未完のファシズム」を読んで、私が抱いていた疑問についてのひとつの解を頂いたと思うので、備忘のために此処に記しておく。

2 まず、片山先生によると、第一次世界大戦の教訓を日本陸軍が何も学ばなかったというのは誤解である。
 曰く「日本陸軍は青島戦での経験や第一次世界大戦の全体的な観察や分析から、今後の戦争は科学力と工業生産力、国家としての総合力、最も単純には物量の多寡で勝敗が決するのであり、勇気や決断や精神力や果敢な突撃精神は時代遅れで副次的なものになりつつあるとの認識を深め(ていた)」(片山杜秀『未完のファシズム』新潮選書p98)。
 つまり、日本は第一次世界大戦で展開された総力戦がこれからの戦争の主流になり、日本の国力を考えれば、そうした「総力戦」には耐えられないと日本陸軍も承知していたと言うのである。
 「素直に考えれば、日本も米英等の列強並みに国家総動員の準備をすることになるでしょう。だが「持たざる国」と「持てる国」の如何ともしがたい懸隔がある。頭ではそうするのがいいと分かっていても体が付いていかない。「持たざる国」がどんなに背伸びをしても急に「持てる国」になれるわけがない。」(同書p250)
 そして、以上のような日本の現状についてのリアルな認識を前提にして、そこから先どのように今後の戦争に対処するかの点を巡るスタンスの違いが「皇道派」と「統制派」を生んだ。
 「そこで荒木貞夫や小畑敏四郎のような「皇道派」の軍人は、劣った物質力を強烈な精神力で多少なりとも補って、それでやっと日本の勝てそうな相手とだけ、なるべく短期で決着する戦争をすればいい、それ以外は負けるからやれないと、思い詰めてい(った)」(同書p250)。
 これに対し、「統制派」は「持たざる国」を少しでも「持てる国」に変えてゆく努力をすべきで、「持たざる国」を「持てる国」にするのに何十年もかかるかもしれないが、日本が「持てる国」になるまでは総力戦には一切関わらない。これを具体化したのが、石原莞爾の「世界最終戦論」で、日本が「持てる国」になるために満州を活用しなければならないと彼は考えていた。
 「持たざる国」としての日本の「総力戦」に対する考え方としてはいずれもそれなりに合理的思考を有している。
 だが、歴史はそうは進まない。(時期としては前後が逆になるが)一方で、「統制派」はその領袖である永田鉄山が暗殺され、石原も東条英機と対立して予備役に回された事で力を失い、日本を「持てる国」にするという思考は失われた。他方で、「皇道派」は二・二六事件で失脚し、結果的に「皇道派」の「劣った物質力を強靭な精神力で補う」という発想だけが陸軍内に残り、元々は「持たざる国」相手にしか通用しないと考えていた精神力重視の思考が「持てる国」である米英との戦争にまで拡大して使用されるようになったことが、先の大戦の壮絶な負け戦に繋がった。
 
3 以上は「未完のファシズム」を読んだ私なりのまとめであり、同書を正確に要約しているとは言えないかもしれない。片山先生の同書における主意は「明治憲法体制は、そのシステム構造上国家総動員体制を構築する事を阻むような仕組みになっていた」という点であろう。
 ただ、冒頭に挙げた「坂の上の雲」を読んだ後の私の「分からなさ」に対するひとつの回答を片山先生は提示して下さったと思っている。
 話を今の日本に移す。時の政府は防衛費を大幅に増額していつでも戦争できるように軍備を整えようとしているようにも見える。
 私は「非戦」論者であるが、教条的な「反戦」主義者ではない。中国船が連日尖閣諸島に侵入しているにも関わらず、その事実が断片的にしか政府から開示されていない所を見ると(注1)、中国共産党は東シナ海に軍事力を相当数集結させているのかもしれない。

注1)

   全ての情報が開示されるべきだとは思わない。だが、尖閣諸島に中国船が侵入しても報道がなされなくなった裏には何がしかの政府の意図があると考えた方が良い。

 「戦争は為政者の意図ではなく遂行能力の有無によって開始される」というのが国際政治の常識だそうであるが、もし中国共産党が台湾や日本と戦争を遂行し得るに足る軍事力を動員しているのであれば、「ウクライナ侵攻」と同様に数年先に中国共産党と我が国の間で戦争が起こる可能性は無いとは言えないだろう。 
 第二次大戦終結後70年近くもの長きに亘って日本が戦禍に一度も晒されなかったのは、我が国の憲法が9条で「戦争放棄」を謳っており、戦争する「意図」がない事を海外に発信していたのが一つの要因であるのは間違いないと思う。
 だが、先に触れたように戦争する「意図」がこちらになくても、相手が戦争する「能力」を有していれば、それは戦争に発展する可能性はある。
 日本が「持たざる国」という前提は今日も変わっていないが、あえて「避戦」のためにこちらも戦争する「能力」を有していた方が、結果的に「非戦」につながるのかもしれない。そういう「パワーポリティックス」の考え方には実証性がないが、「持たざる国」が「持てる国」になろうと無理して背伸びをしているのではなく、「持たざる国」なりに戦争を回避するために軍備を整える事が必要であるならば私はあえて反対はしない。
 少なくとも今回の防衛費の増大を単なる景気対策と見做すのは・・・結果的にそういう効果はあるだろうが・・・早計だと思う。
 
 


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