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奇跡のインド 後日譚前編

奇跡のインド20までは、インドから帰って一気に書いて、配信を開始する前にほぼ書き上げていたものである。しかし帰ってしばらく経って、気になることがいくつかあるので、こうして改めてペンを取ることにした。

この原稿のタイトルを、「奇跡のインド」に決めたのは、割と最初の頃である。その時点ではまだ何を書くか決まっていなかったのに、タイトルをそれにしたことが、今となっては興味深い。

まず、私が奇跡だと思っていたことが日常になったという快挙が起きた。うまく言えないのだが、毎日よいことばかりが起きるようになった。必要な人とは黙っていても会うことができ、欲しい情報は自然に目に飛び込んでくる。リラックスして毎日過ごしていれば、自然によいことが起きる。仕事は絶好調で、しかも感謝される。そういう一歩間違えるとオカルト的な状況が、私の周囲で生じているのである。

思うに、このことには私が、物事をありのままに見ることができるようになったことと関係しているのではないだろうか。
今まで私は、物事を自分の感情を通して見て、考えていた。要するに世界を、色メガネをかけて見ていたのである。そして人は得てして、色メガネをかけてしか物事を見ず、自分が色メガネをかけていることにすら気付かない。
しかし色メガネを外すことができると、物事をありのままに見ることができるようになる。そうすると、腹を立てなくてはいけないことなんか、あまりないのだ、と気づき、イライラすることが減った。これまで私は、ちょっとしたことでも割合イライラし、自分で自分を苦しめていた。イライラというのは、要するに怒りだ。イライラしなくなれば、心が穏やかな時間が増える。

インドに居る間、まるで自分がヒンズー教徒になったみたいに、キールタンなどを通じてインドの神様の名前を唱えた。それではちょっとバランスが悪いな、と思って、私は時々般若心経を唱えていた。アシュラムには、24時間祈りを捧げている部屋があって、誰もが入ることができる。そこへ行ってマントラを唱える代わりに、般若心経を唱えたのだ。ちなみに、その部屋に行っても、出る時にプラサード(お供え物のおすそ分け)がもらえる。

般若心経のはじめに、「照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。」と出てくる。私はここにこうして書いてみるまで、照見は正見だと思っていた。だから、なんだ、般若心経の初めに「正見」って言ってるじゃない、と思って調べたら「照見」すなわち、わかった、ということだった。
いずれにせよ、「正見」とは、仏語で(フランス語のことではなく仏の言葉、のほうだ)、物事を正しく見ること、だ。自分の都合で偏った見方をしない、ということ。
そもそも般若心経の冒頭には、観自在菩薩、が出てくる。観自在菩薩とは、観ることが自在な菩薩、すなわち観音様のことだ。観自在菩薩が行をしているときに、五蘊は空であるということを知った、というのが、般若心経の冒頭の訳になると思う。ここですでに観ることが自在な菩薩が出てくる。観ることが自在な菩薩というのは、偏見に捉われない、正見ができる菩薩、という意味ではないかと私は思っている。仏教では、色眼鏡を外して物事を見ることの大切さを説いているのだ。

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