桜の下に幸せがある幸せ🌸
いつもより少し遅めの桜前線もぐんぐん北へ北へと上っていって、都内では桜吹雪が舞ってそろそろ葉桜の時季になりました。
今年は、桜の下でお弁当を広げてお花見を楽しむ姿もあちこちで見られて、ああやっぱりこの景色は良いなあと思いました。
私がまだ幼稚園に通うくらいの頃に、家族で広い公園でお花見をしている白黒写真があります。母と祖母は素敵に着物を着て羽織も重ねています。その当時の大人の女性は、特別なお出かけによく着物を着ていました。
弟が、その頃流行っていたファンタの小さいビンをラッパ飲みしています。あらまあラッパ飲みなんかして‥みたいなことを祖母が言って、私はそのラッパ飲みという言葉が面白くて、笑い転げています。母もカメラに向かって笑っています。弟も私もベレー帽をかぶっていて、祖母の編んだカーデガンを着て、おめかししてるのがわかります。父が撮った写真なので、父は写っていませんが、大笑いしながら撮っている様子が目に浮かびます。
皆んなの前にお重箱が置かれていて、太巻きがたくさん並んでいます。白黒写真でも、それがとっても美味しそうに見えます。
そのお花見の写真が、私はとても好きで、お花見というとその情景を思い出します。公園にはその当時人気のテレビ番組の怪獣ブースカ(の着ぐるみ)が来ていて、弟は抱っこしてもらっていました。弟はなんて勇敢なんだろうと感心したのも覚えています。遠い記憶の桜の下には、キラキラした多幸感が満ちていました。
そんなお花見になんとなく憧れて、大人になって、太巻きを作ってお洒落してお花見に行くというのを何度かやってみましたが、太巻き作りは私にはハードルが高く、途中からおにぎりになって、そのうち横着になって何も作らなくなってしまいました。それでも、皆んなが集まって桜の下でおしゃべりする幸せは特別なものでした。
誰もがそんな特別な幸せに惹かれて、時間がなくても出かける途中に桜の木の下を歩いたり、夜桜を見るために短い時間でも友達と集まったり、色んな工夫をして思い思いに桜を味わうんですね。
コロナ禍の何年間かは、お花見の飲食は禁止され、桜の下を並んで歩くことさえ、感染の原因になるということでした。辛い状況の中、せめて桜を見て癒されようと訪れる人が、大勢集まってしまっている様子が報道され、感染者の増加に繋がるだろうという暗い予測に繋がっているのを非常に残念に思いました。
コロナに限らず、災害時や非常時にはお花見を楽しむ余裕などなくなります。心身が健康でない時にもお花見が叶わない場合があります。また、桜があまりにも美しく象徴的な花なので、平和ではない世の中では、何か悲しいものを連想させることさえあります。
だからこそ、賑やかに楽しく桜の下に集う時間はかけがえないものなのですね。今年、桜を見て嬉しいなあ綺麗だなあと思えたこと、誰かと一緒に眺めて笑えたことには、感謝しよう思いました。
そう言えば、竹内まりやさんの「人生の扉」という曲の中に、五十路を越えた私は満開の桜や色づく紅葉をあと何度見ることになるだろうという意味の歌詞があります。私は、五十路を迎えた頃には、そんなものかなあと思いながら聴いていたのですが、五十路をずいぶん過ぎた今、その意味がよくわかる気がしてきました。ひとりひとり愛する人たちのために生きてゆきたいとその歌詞は続き、なるほどと思いました。桜を見る心境も年齢と共に変化しているのでしょう。
桜を見上げることは、あと何回出来るのかわかりません。そんな中、綺麗だなあと思える幸せ、誰かとそれを分かち合える幸せを実感することを大切にしたいと、今は思っています。🌸