心に作者の意思が明確に留まるような文章も好きだけど、今、心の川を作者の言葉がただ流れるように、まるでなぞっていくように書かれた文章に魅かれる、そんな文章を書いてみたい
日本語は美しい。
日本語の美しさを再確認できるような文章に出逢えると、なんとも心が華やいだ気持ちになる。
そんなことを言いながら、私は日本語の美しさを本当の意味では知らない。
語彙力。。。これはやはり読書量に匹敵するのではないかと思う。
恥ずかしながら、私は読書量が圧倒的に少ない。
本を読んでいた時代は、もっぱら若い頃だ。
そんな当時に知った日本語の種類など数知れている。
ならば今、本を読めばいいものを、疲れているとか時間がないなどを理由にほとんど読めていない。
結局は、言い訳にすぎないのだ。
書きたい文章を書くには、やはり読書だと感じ入る。(今頃?苦笑)
私は前にも書いたが、言いたいことが明確にある時ほど、抽象的に書きたくなる傾向がある。
逆に、言いたいことが明確にない時ほど、論理的に書きたくなる。
これは、書く上での個人的趣向なのであろうが、もし、私と同じタイプの方がいらしたら是非、お声掛け頂きたい。
なぜ、私はこのような書き方を望むのか?
きっと、私は「中庸」を求めているのだろう。
私は情緒不安定な人間なので、調和が取れている状態の「中庸」への憧れがあるのだと思われる。
気を抜くとすぐに白か黒かのカラーの濃い(主張の強い)書き方になってしまう。
それが悪いというわけではなく、その書き方が「想い」を伝えるのに有効な場合はそれでいいと思う。
ただ、今の私は、私自身が求めている世界観が、おそらくは「中庸」なのだろう。
要は、少しでも冷静さを取り戻し、自分の信じる道に集中したいのだと感じる。
その上で、行動に移したい、その上で、目的に向かって邁進したいのだ。
では、その目的とは?
ここでキーボードを打つ指が止まってしまった。
あれ?私の目的って?
よくよく考えてみると、今の私には明確な目的がない。
なぜだ?なぜだ?
そういえば、最近の記事で、私は「無心」になりたいと書いた。
「無心」になるほどに情熱的に生きてみたいという憧れがあったからだ。
私の中では、情熱的に生きること=「無心」=集中力なのではないかと思う。
集中力?それは私の憧れる「中庸」的世界観に近くはないだろうか?
あれ?とすると、「無心」と「中庸」は私にとっては近い感覚なのかな?
いや~、日本語って難しい、「無心」と「中庸」、全然違うのかもしれないけれど、なんだか今の私には両方の言葉にしっくりと来る何かがあった。
言葉って面白い。
一つの言葉からイメージするものが、きっと人によって違うのだろう。
同じ人間であっても、その時々の状況によって、感じ方が変わってくるのかもしれない。
あ~、タイトルとかなり脱線してしまったな。(汗)
ただ流れるように、まるでなぞっていくように書いたということにしてしまおう。(笑)
さて、今日も生きる(寝る)としよう。