私にとっての書くことは、日記やエッセイというよりは、思考の確認であり、人生の振り返りであり、良く言えば感情の発散、悪く言えば感情の垂れ流し(爆発?)なのだろう。
自分の記事を書いた後に、皆さんの記事を読みに行かせて頂くと、自己嫌悪に陥る。
私の記事はなんなんだ?すごい性格の悪そうな人の記事だなと思った。
性格が悪いというか、幸せそうに見えない、意気がっている人のようにも見える、卑屈さがどこか残ってしまっているように感じた。
それは、もしかしたら仕方ないことなのかもしれない。
と、自分をずっと擁護して生きてきたが、それもそろそろはずさなければいけないのだろうな。
しかし、これが自分だと思ってしまう自分もいる。
結局は、私という人間は、葛藤なくして生きられないのだろう。
うわ~、と心踊らされるような記事、へ~、と関心させられるような記事、お~、と羨ましくなるような記事、たくさんの感動があちらこちらで見受けられる。
noteは素晴らしいところだなと改めて思った。
私は思考と言う名の言葉の下で、自分をもしかしたら擁護しすぎているのかもしれない。
一つ前の記事と書いていることが反しているような気もしてきたが、私という人間は、こうして、ちょっと何かあるとぶれてしまう、揺れてしまう、危なっかしい生き物なんだなと痛感してしまった。
複雑な生い立ちがそうさせているのか?現状のしんどさがそうさせているのか?わからないが、今の私は不健康なのかもしれない、もしくは方向性が定まってないのかもしれない。
どんな記事でもいい、自分という人間の方向性がぶれてない人の記事は、なんだか安心して読むことができるし、コメントをしやすい雰囲気にあふれているような感じがする。
私の記事は、かなり独りよがりであり、少々の意気がり感をも感じる。
うーむ、時に(交流はないが私を嫌いな人からの)嫌味なツッコミが入るのはそのせいかもしれない。
要は、ツッコミ要素をわざわざ自ら露呈してしまっている感じなのだ。
少しは、前向きに、明るく、楽しく、生きている記事を書いた方がいいのだろうが、私は人生の傷の癒しが足らないのか?喜んで頂けるような記事をまだ書ける状態にない。
これは人生の危険信号と認識した方がいいのだろうか?
私という人間は、少し不幸慣れしているというか、不幸感がある方が、もしかして生きてると感じているのだろうか?
あ~、いやだ、いやだ、なんだかかなり変な人じゃないか、ますます人が寄り付かなくなってしまう、変な人だと思われてしまう、しかし、これが私なのだからと開き直るしかないのだろうか?
一つ前の記事と方向性が同じなのか?真逆の記事を書いているのか?すらわからなくなってきたぞな。(苦笑)
さて、今日も生きるとしよう、2回目で~す(爆笑)