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  心を飛ばすんだ、いいかい、とにかく咽喉がカラカラになるまで、空っぽになるんだ。
 僕は目を閉じられず、瞳孔を薄情に見開く。
 彼女の満面の笑壺に入った顔と、醜く萎れた枯れ尾花のような頬が目の前にある。
 濡れ雑巾のような、カサカサの手は大きく、僕の胸を広く制圧している。

 獲物である、哀れな野鼠を高らかに捕らえた、大蛇のように赤い舌で、僕の胸まで真正面まで近づき、生命力の強い、蚯蚓のように舐め始めた。
 卑屈な振動がじかに伝わり、僕の冷たくなった唇と機微と敏感な胸先は、ピクン、ピクンと動いた。
 どっと強力な倦怠感も、押し寄せた。

 冬枯れの水無川のような、危機的な疲労だ。
 僕はこの期に及んで抗おう、と蹴ったり、かじったり、手で摘まんだりした。
 それでも、彼女の力は途轍もなく強く、僕を抱えるように前のめりになった。

銀鏡神社のお社。

「僕が何をしたんだよ。お前に何をしたっていうんだ」
 悲鳴がささやかな抵抗だった。
 孤高を気取る女王蜂の触手のように、そのムニュムニュした舌は僕の乳首の奥まで吸い込んだ。
 僕は反射的にのし上がろうと背中を反った。
 おーい、おーい、と再び、あの謎めいた声が聞こえてきた。
 僕はそれに向かって、叫ぼうと苦心した。
 ここにいる!
 ここにいるんだ! と声にならない声で、口の中の真空を吸った。
 噎せ返り、爆音にさらされたような沈痛がする。

「逃げようとしたのですね。それは許しませんよ」
 姫は計画通りの満悦に浸ったのか、僕の白シャツのボタンを丁寧に直し始めた。
 何だ、これで終わりなのか、これで解放される。
 良かった、と思う反面、今度は途轍もない恐怖心が芽生えた。
 ここで命を絶たれてしまうんじゃないか、という最大限の恐怖。

「山の草花に手を出しましたね。私の山の生き物を傷つけましたね」
 ハッとなって、その容顔を一瞥すると、姫の小さな眼はどことなく、潤んでいた。
「草木も摘まれたら痛いのですよ。声には出せないけれども、怖いのですよ。あなたは山のものにむやみに手を出しましたね。私の森に」
「違うよ。僕はそんなつもりじゃない」
 素っ気なく言い訳して、何になるのだろう。

「僕は山の草や花を傷つけない。約束する。だから、帰らせて」
「仮に約束を破ったとしたら?」
 姫の問答は気が遠くなるまで、続きそうだった。
「君の思い通りにしていい」
 姫は決死の覚悟の僕から離れ、立ち上がろうと腰を曲げたら激痛が走り、踝が傷んだ。
「私のもとへあなたは一度迷い込んでしまったのです。あなたは」
 その続きを聞く前に僕はよろめきながらも、無我夢中で名前を喰われないために、僕はとにかく逃げた。
 自転車までの距離は意外にも短く、鎌首を振り回した山姥のように、姫が追いかけてくるのかと思いきや、それは杞憂で終わった。
 恐怖感に苛まれながら振り返ると、蓮華畑の面影は消え、そこはただの山に通じる獣道になっていた。

 何かが倒れている。
 鳥居だ。
 それも、石製の鳥居。
 それも歴史の風化を物語った、すごく小さな鳥居だった。
 もしや、僕は木苺や草苺を食べるのに夢中で、その鳥居の祠を倒してしまったのかもしれない。
 とっさにその鳥居を基に遭った場所まで直し、埃や落ち葉を払い、必要最小限の償いを施した。
 罪悪感で、どうかなりそうでも、山の急な天気の気まぐれな遮光にぞっとして、立ち去るように家路に向かった。

星神楽⑯ もののけ姫、カリコボーズ|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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