死の啓蒙と星月夜
僕の思想は薄っぺらい感情論でしかない。
ただ死にたいと言い、それ以上でもそれ以下でもないのだ。ただ一つ言い分があるとすれば、社会的な損得勘定によって自分は生きる価値の無い存在になっているということだ。それ故の希死念慮。ペシミズム、ニヒリズムに関する本を読み漁り、そうだこれだと感動し、時間のある限りそれらに意識を集中させ、そうして死にたいという思いは日に日に成長していった。しかし、ここで問題が発生する。僕は、死にたいという思いばかりが成長して、死するための行動力が成長しなかった。それ故に僕は、終日と布団に転がり毛布に潜り込み、そうして僕の物語は続くのである。
変わり映えのない僕の生活を支えてくれたのは本だった。文字を追っていく気力も本を開く気力も無い日が何日も続いてはいるが、それでも頑張って一行読めた時、特に読んだ箇所が痛快な一文であるならば、少しではあるが僕の心を満たしてくれた。と言っても僕の心を満たしてくれるのはペシミストやニヒリストの言葉だけであるが。
僕らは何故生きなければならぬのだろう。魂があるとすれば、魂の世界があるとすれば、地球から人類を消し去って、皆で魂の世界に住めばいいと思う。そうすれば、地球はこれ以上破壊されずに済むし、皆は重い体で地を這わずに済む。という浅はかな考えが最近になって浮かんできたのだが、誰も賛成はしないだろう。同意するはずもない。何故なら大半の人は死にたくはないのだから。僕が唯一誇れる思想は所詮こんなもので、そんなちっぽけな危険思想を世界の片隅で、窓の外を、昇る満月を見つめながら独り思うだけである。
無気力と虚無が僕の傍に居てくれる。そのお陰で、僕は布団とも仲良しになれた。僕は如何にして無駄な労力を使わずに生活が出来るのかという知恵も授かった。何もしないという贅沢や少食であることの利点を僕はよく知っている。それはお金を浪費することを抑えるというものである。浪費する量が少なくなると貯金が増えていく。また、浪費量が少ないと低額の給料でも生活出来るようになるため、仕事に無駄な労力を使わずに済む。何もしない、何も成さないことのなんと素晴らしいこと! そして死に向かって部屋を整えられたらと布団に横になりながら思うのである。何もしていない時は物思いに耽るのが一番、その次に昼寝をすることを良しとする。物思いに耽る時は、出来れば一つの事に集中したい。必要とあらばメモを取る。そうして考えを突き詰めていき自分を作り上げるのである。と言いつつ、僕の場合はというと、余ったお金で本を買い、読みふけって自分を作っていくのであるが、そのほうが自分で考えるよりかは幾分かマシという読者諸君は本を読むといい。その代わりに読んだ本は、再読しないのであれば捨てなければならない。死に向かう人にとって断捨離や身辺整理は必須である。
無味な僕らは周りの人や世間に流されずに生きなければならない。死にたいという思いを捨てずに、どこまで自分を表現出来るのかを常に測っていかなければならない。僕らペシミストやニヒリストはいつもアウトサイダー的な立ち位置でいて、仲間を作らずに孤独でいなければならない。死を恐れず、むしろ死をゆりかごのように思わなければならない。身体に強い痛みがある時には「あぁ、今から死ぬるのだ」と息深く吸い、そして吐き、その痛みを享受しなければならない。そして何よりも、僕らは自立しなければならない。そして出来るだけ誰をも頼らないほうが良い。自立は死に向かうための第一歩である。最終的には最小限の物しか持たず、家も所有せず、気のみ気のままに即日旅に出られるお金さえあればそれで良い。無価値な僕らは死に向かわなければならない。そのために時間を使い、考え抜き、最小限の行動をするのだ。
死は人生最大の変化の時である。死は喜びの象徴である。僕らは僕ら自身の死を祝福し、他人の死をも喜ばなければならない。八十も九十もなって重たい身体を引き摺り生活するよりは、四十ぐらいで早々と病死、事故死してしまうことを良しとする。早死は幸福の証である。死への価値観、風習等を改めなければならない。死は怖くはないと、怖いと思うのは痛みの方であると意識しなければならない。それは最初はとても怖いだろう。しかし、死へ向かう者として達成しなければならない項目、目標である。そのために日頃より死を想起しなければならない。生きる者は生きることに注目し、そこに意識を置くために生きるのであって、僕ら死にゆく者は死ぬることに注目し、そこに意識を置くために死ぬるのである。
死に向かう僕らは、神に背いているのだと知れ! しかし、神は僕らのことを見捨てはしないだろう。神は無条件の愛で以て僕らの死を、死へ向かおうとすることを許すだろう。僕らはその点に於いては神に感謝しなければならないと同時に、神と同じ創造性を持っていながらもそれを放棄することについてを神に懺悔しなければならない。僕らの死は全て神の御旨の元に、神という世界に抱かれて行われるのである。それ故に僕らは安心して永遠の眠りにつくことが出来る。
「○○しなければならない」と長々と書いてきたが、それら全てを行う必要は無い。何故なら、僕らは何処までも自由だからだ。それこそ死に向かおうとする自由が許されている。自由は便利であり、時に不便でもある。寄る辺の無い自由は、目標の無い自由は、ただの迷子である。僕が「○○しなければならない」と書いたのは、読者諸君を迷子にさせないためである。しかし、僕らは全くの自由の身だ、僕らは自由に生き死にが出来る身であるから、その時々の選択をして体験していくのである。しかし、選択した体験に正しいも間違いもない。だから君よ、今一度、僕と一緒に満月でも見ないか。好きな飲み物を持ち寄って、窓の外を、静かな夜を見てみないか。これから死にゆくであろう君が静かな月夜へと昇ることが出来るように、その門出を祝おうではないか。僕らは仲間ではない、ただの通りすがりの旅人である。目的が同じ。ただそれだけである。いつか、僕らの魂は、地球を離れ星々の間を、縫って進み続け、煩いの無い星へと、世界へと向かうのである。次に会う時は笑顔であれ。
星月夜 死にゆく者の 息深く