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「JOKER」の感想:あなたはジョーカーではないですよ。

トッド・フィリップス監督の「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」が公開されていますが、前作「ジョーカー」について感想をまとめていなかったので、なるべく簡潔に書いていきたいと思います。

と、言いつつ今回も長くなったので、試しにチャットGPTに全文をコピペして、「章題と要約を表にして」と頼んだら、時々間違いがあるけど、なかなか良い感じに出力してくれました。

文章を少し修正したのを画像で貼ってみますので、良ければ見てみてください。それで読んでも良いかなと思ったら本文も読んでみてください。

(1)「ジョーカー」における主人公ジョーカーですが、徹底的に鑑賞者が共感出来ないようになっているし、その「鑑賞者が共感出来ない」ことこそが目的のキャラクターと私は考えています。

(2)勿論、これはあくまで私の考えなので、「あの可哀想で狂気に満ちたジョーカーは私です」と共感してもらっても良いですし、いまからなぜそう考えたかを述べていきますね。

(3)公開時のことだったと思うのですが、当時のトランプ大統領がホワイトハウスで「ジョーカー」の鑑賞会を開催して気に入っていたというニュースを見ました。その時、気持ち悪いなと、苦しい笑いが出てしまいました。成金のテレビスターが、あの可哀想なアーサーがジョーカーになってしまうのを、どうやって楽しみながら観ることが出来るのか。まさか、「虐げられた白人男」みたいな感じで共感でもした訳でもないだろうな、と。

(4)貧しくて優しいアーサーに対して、裕福で粗暴なトランプ大統領が共感を抱くのはおかしいだろ、というのは何となく理解を頂けるかと思うのですが、とある日本のニュース番組で、有名なコメンテーターが「ジョーカーに『共感』しかない」と言ってたこともありました。その時も私は笑ってしまいました。だってその人、今も毎日のようにテレビに出て自分の意見を発信してるし、結婚して子供までいるし。アーサーが欲しくて手に入れられなかったものを全部持ってるのに、貴方がアーサーに共感なんて出来る訳ないでしょ、と。

(5)で、割と「アーサー(ジョーカー)に共感する」という感想をネットとかテレビとかで見ていて、その度に「お前はアーサーより明らかに良い状況だろうなんだから、共感なんて出来る訳ないだろう」と思っていて、ある時、私はハッとしたんですよね。

じゃあ、この世界で誰がアーサーに、そして、ジョーカーに共感出来るんだろう、と。

(6)ここで、ちょっと話を変えてジョーカーとアーサーについて、私の感想を述べておきたいのですが、「弱い」キャラだなと思いました。映画鑑賞後に思ったのは、今回描かれたジョーカーはこれまでのバットマンに出てきた知的に翻弄する感じの芸当はしていないし、また、今後もそうすることは無いんやろなということです(続編でどんな感じになるか楽しみ)

(7)例えばノーラン監督の「ダークナイト」のジョーカーはかなり知的なことをやってバットマンと対決していましたよね。

バットマンの恋人と、街の正義を守る判事を両方誘拐して、どっちを守るか選べとか。一般人が乗るフェリーと囚人が乗るフェリーの両方に爆薬を仕掛けて、お互いに別の船の爆破スイッチを持たせて「助かりたければ相手のことを先に爆破しろ」と言ったりとか。

ダークナイトのジョーカーはこういうことを言ってバットマンが標榜している「正義」に揺さぶりをかけてるわけですが、なんか小賢しく頭使ってる感じでなかなか一般人には思いつかない攻撃ですよね。

(8)差別的な考えと誤解されないように、まず言っておきたいのですが、映画に出てくるアーサー(ジョーカー)には知的障害があります。でもそれが理由ではなく、彼は単純に知略・謀略を駆使するような攻撃をする感じの人ではそもそも無いように見えました。

更にはっきり言うと、「JOKER」の主人公アーサーからは障害を持った優しい青年という印象しかなく、稀代のフリークスとしての狂気を感じることが私には出来ませんでした。映画の後半ではジョーカーの事件に感化された「虐げられているので、ジョーカーに共感している人々」が暴徒化し、ジョーカーを信仰の対象のように崇めますが、他作のジョーカーなら、彼らをまとめ上げて恐ろしいことをしでかすような気もします。でも今回のアーサーはおそらく彼らを制御することは出来ないでしょう。

(9)ただ、一つ悪役として相応しいと思ったのは、彼は「殺せる奴」なんだろうなということです。佐藤大輔氏の小説などでよく出てくるエピソードなのですが、人間は他人を殺すことがなかなかできない生き物らしくて、戦場などでもわざと敵に当たらないように銃を撃ったり、戦闘で敵を殺してしまった後は、大きな精神的な傷を負ってしまうそうです。
ただ、時々、人を殺してもなんとも思わない人もいるそうで佐藤大輔氏は小説で「戦場にいる人間は二種類。人を殺せる奴と殺せない奴」みたいなことを書いています。
アーサーは電車の中でチンピラに絡まれた時に銃を撃ってしまい人を殺してしまいますが(見事にヘッドショット)、その後、人を殺したこと自体に関して何か悩んでいるようには見えませんでした。
彼が精神的な障害を持っていたからという説明も出来るかもしれませんが、彼は人を殺してもあまりそのことで精神的な傷を負わない人、佐藤大輔風に言えば「殺せる奴」なんだろうなと映画を観ながら思いました。物語が進み、アーサーの境遇が苛酷になるにつれて、その「殺せる」という特性が、さらなる悲劇を産んでいっているように感じました。

(10)それ以外の部分で、私は映画の最後までジョーカーが、狂ってるとは思えませんでした。疲れ果て、投げやりになってはいたかもしれないですが、狂気ではなかったような気がしていて、どちらかというと人間性みたいなものをずっと感じていました。彼の望みは大それたことでは決してなくて、子供に笑ってほしいとか、母親と穏やかに暮らしたいとか、憧れのテレビスターと一生に一度で良いから一緒の舞台に立ちたいとか、そういうささやかな「他人と温かい関係で繋がりたい」ということだけだったと思います。

それなのに、悲劇的な(喜劇的な!)偶然が重なって、アーサーは他人の悪意のみを受け止めることになり、怪物になってしまいます。

(11)また、アーサーは憧れのテレビショーに出ることが決まった後も、ステージ上で自殺をすることを考えていましたよね。でも、彼は例のノックノックのジョークで自殺することができませんでした。デニーロに調子を狂わされたというのもあるけど、何であの時に自殺をしなかったんだろう、と観賞後にしばらく考えていたのですが、多分彼はまだ「自分の言うことを聞いて欲しい」と願っていたのかな、と私は解釈しています。たくさんの人を殺して、もうどうしようもない状況であっても、それでも「他人と繋がりたい」とアーサーは考えていたのではないか、と何となく思うんですよ。

(12)周りの人達から裏切られ、罵られ、誰からも温かい言葉をかけてもらうことが出来ず、貧しく惨めでもう死ぬしかないような状況でも「僕の言うことを聞いて欲しい。他人と繋がっていたい」と思えるような青年。彼に共感できるような優しくて善良、それなのに哀れな人がこの世界に居るかと言うと、私はいないのではないかと思います。

「私はジョーカーのように惨めで…」と言う人が映画が公開された後もたくさんいたのですが、おそらくその人達はアーサーよりも裕福だろうし、もしかしたら友人もいるかもしれない。愛してくれる家族がいるかもしれないし、もしかしたらテレビなどにも出ている人かもしれません。そもそもアーサーは映画館で映画を観に行くことさえも出来ないくらい貧しく、障害を抱えていた(急に笑っちゃいますもんね…)んだから、少なくとも映画「JOKER」を観ることが出来る人は、アーサーと同じ境遇の人、言い換えれば「アーサーに共感する資格のある人」は居ないと私は思います。

(13)だから、私は主人公であるアーサーは鑑賞者が共感することが出来ないように作られた登場人物と考えています。むしろ「共感をすることが許されないキャラクター」と言った方が良いかもしれません。

(14)では、鑑賞者はこの映画は登場人物に共感する類の映画ではないのかというと私は実はそうではなくて、アーサーの「周りの人達」には共感を覚える人は多数いるのでないかと思います。

例えば冒頭のバスの中で、アーサーが前の座席の子供を笑わせようとするシーン、母親が気味悪そうな視線をおくり子供を遠ざけますが、とある映画評論家が「私はあそこでアーサーではなく母親に共感してしまって、そのことに対して自己嫌悪してしまった」と述べていました。でも、私も子供の親からすると、みすぼらしい格好をしたおじさんが自分の子供にあんなことをしていたら、おそらく気味悪がって子供を遠ざけるか、睨みつけてしまうのではないかと思います。そのシーンだけでなく、障がいのある人や奇妙な恰好をした人に(暴力を振るうことは無いにしても)行動を不気味に感じたり、避けてしまったりすることは誰にもあると思います。

(15)また、私はロバート・デ・ニーロにも共感を覚えてしまいました。「自分に辛い想いをさせる社会をぶっ壊したい」と言う人が居たら、きっと前後の事情を知ろうともせずに正論で説教してしまうと思います。あの時のアーサーに必要だったのは「分別のある意見」ではなくて「辛かったね」の一言だったのに、デニーロを含め誰もその一言を、彼に言うことをしませんでした。

(15)こんな感じで、アーサーの周りの人は、誰もが「私もアーサーみたいに接したら、こういう行動をしてしまうかもな」という「共感」を持てるように作られていたと思います。私はこのことは、この映画を観る上で特に注意すべきと考えます。

(16)ジョーカーを作り出したのは、アーサー自身が持つ狂気ではなく、「周りの人たち」の行動や言動の悲劇的(喜劇的)な連鎖の結果でした。私たちはこのことも深く受け止めるべきです。ジョーカーを作り出したのは、子供を遠ざけようとしたり、前後の事情も知らずに正論だけを述べて人を傷つけてしまったりするという「私たちも共感できる行動」でした。それは私たちが知らずに普段からやってしまっていることでもあるかもしれないということです。

私たちが無意識にやってしまう相手を傷つけてしまう行動や言動が、アーサーのような弱い立場の善良な人を傷つけ、最終的にはジョーカーのような制御不能の化け物を生み出してしまう……

つまり、この映画が言いたかったことは「ジョーカーになるのはあなた」ではなく、「ジョーカーを作り出すのはあなた」ということではないでしょうか。

(17)また、アーサーは最終的に憧れのテレビスターを銃で撃ってしまいました。その姿をテレビで観ていた人々は暴徒になってゴッサムの街を破壊していきます。最後のシーン、暴徒たちはアーサーを称えますが、彼らはアーサーのことをどれだけ理解したのでしょうか。アーサーはああやって祭り上げられて嬉しかったのでしょうか。そして、ジョーカーとなった彼は、多作のジョーカーのように、あの暴徒たちをまとめ上げるようなカリスマも指導力もおそらくありません。あの暴徒は一体どうなるかと言うと、訳も分からず「ジョーカー」の偶像を崇拝し続け、破壊を続けるでしょう。

私たちがごく自然にやってしまう相手への思いやりのない行動が、「制御不能の化け物」だけではなく、「制御不能の混沌」をも作り上げてしまう。そういうことをあのラストは表しているのだと私は考えています。

(18)そして、様々な解釈のある最後の精神病院に収監された後のシーンもそんなに難しいシーンではないと私は考えています。ジョークを思いついて一人で笑うアーサーに、カウンセラーはどんなジョークか教えて欲しいと伝えます。それに対して、アーサーは「理解できないさ」と答えます。

あれほど「他人と繋がっていたい、他人に自分を知って、理解して欲しい」という想いを持っていたアーサーが、自分から他人との繋がりを拒絶したのです。私はあのラストシーンはつまり、「ジョーカーが完成した」ということを表しているのだろうと考えています。

(19)上記の通り考えたので、私は映画「JOKER」を観た後、自分の何気ない行動が他人を傷つけていないかということを、(少しだけかもしれませんが)考え行動したり発言するようになりました。現実の世界でジョーカーのような制御不能の化け物を生み出さないようにしたいと考えたからです。「JOKER」は大ヒットしましたので、ジョーカーを模倣するような事件も起きたりしましたが、映画を観た我々にとって大切なことは、ジョーカーのようにならないことを意識するのではなく、ジョーカーを作り出した周りの人たちにならないようにすることなのではないかと私は考えます。

(20)さて、「JOKER」に関する自分の考えを述べましたが、実はバットマンの映画としても、この映画が気に入っている部分も有るので、そのことについてもおまけ的に書きたいと思います。

アーサーの願いは「他人と温かい関係で繋がりたい」ということではないかと上記の通り書いたのですが、映画を観ていくと、その中でも「お父さんと交流をしたい」というのはかなり大きな願いであるような気がします。おそらくですが、アーサーがお父さんと思い込んでいたトーマス・ウェインが何らかの温かい言葉をかけてあげれば、すべて解決したのではないでしょうか。

もしかすると、制御不能の化け物であるジョーカーになった後でも、「お前は私の子供ではない。だが、今まで辛かったね」と声をかけて、一度で良いから抱きしめてあげさえすれば、アーサーはきっとその後の人生も生きていけたような気がするんですよ。なんとなくなんですけど。

でも、その機会はジョーカー自身が引き起こしてしまった制御不能の混乱によってトーマス・ウェインが殺されてしまったことで、永久に失われてしまいました。

トーマス・ウェインがブルース・ウェインの目前で殺されてしまうことは、ブルースがバットマンになるきっかけなのですが、同時に「ジョーカーがアーサーに再生する最後の機会」が無くなった瞬間でもあるような演出のようにも思えました。

バットマンの「スタート」と、ジョーカーの「ポイント・オブ・ノーリターン」が同時であるという演出のように私は感じて「なるほど、そう来たか」と思ったのでした。

と、いった感じで感想を書いてきましたが、私は未だ続編の「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を観ていないので、全然見当違いのことを書いているかもしれません。

でも、続編とか関係なく一つの映画を観た感想を残しておきたいと思いましたので、書けて良かったです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

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