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シーモアさんをみて教えるとはを考える

8年前に書いた文ですが、改めてそう思ったので記しておきます

2016年10月、シーモアさんと大人のための人生入門という映画を見に行きました

以下公式サイトの引用です


人生の折り返し地点――アーティストとして、一人の人間として行き詰まりを感じていたイーサン・ホークは、ある夕食会で当時84歳のピアノ教師、シーモア・バーンスタインと出会う。たちまち安心感に包まれ、シーモアと彼のピアノに魅了されたイーサンは、彼のドキュメンタリー映画を撮ろうと決める。

シーモアは、50歳でコンサート・ピアニストとしての活動に終止符を打ち、以後の人生を「教える」ことに捧げてきた。ピアニストとしての成功、朝鮮戦争従軍中のつらい記憶、そして、演奏会にまつわる不安や恐怖の思い出。決して平坦ではなかった人生を、シーモアは美しいピアノの調べとともに語る。彼のあたたかく繊細な言葉は、すべてを包み込むように、私たちの心を豊かな場所へと導いてくれる。



「教える」という言葉のイメージは、先生と生徒、先輩と後輩という上下関係ありきで、上から目線に感じるけれど、その実、教わる方(生徒や弟子)は技術だけでなく、先生という人間を観ているもので、教えるとはつまり、

自分自身の生き様を見せることなのだと思いました。

それが完璧である必要はなくて、もし先生が完全無欠の人間だったら、すごすぎちゃって生徒は自分も同じようにしようとは思わないでしょう。先生も不完全であり、完全や成功を目指そうとするからこそ実現というゴールが見えてくる。
先生とは、人生を先に歩いて、失敗して、学習したことを伝えつづける仕事なのかもしれません。「私には他人を教える資格は無い」とか言う人がいるけれど、そうではなくて、教えることはむしろ年を重ねた未熟者が学ぶ場なのだと思います。もし巡り会って誰かを指導する立場になったなら、自分が足りないことを見つけて、勉強して、失敗すらさらけ出して、その技術をつかむために懸命に生きている姿を見せるのが教えること

そう考えたら、生徒に教えるのも楽しくなりました。自分のせっかちな性格もあって、ついつい詰め込み過ぎてしまうレッスンプランを少しゆるくして、ていねいに1つ教えることをどこまで楽しくできるだろうか?と考えてみたら、むしろ至らなかった自分を発見し、それが収穫に感じられました。
あの映画を見るまで忘れていたことに気がつけた!
そして、私にはまだまだたくさん見つける物があると思うとそれもまた楽しみです。

2024年10月にこの記事を読んで
8年前に気づいたこと。それから私自身が年齢を重ね、ペースダウンをしなければならなくなって、また改めてうなづいています。

どんな時も前向きでいること、そしてその姿を生徒に見せること、そこから学んでほしい
反面教師だけど                                                 

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