便利と不便の間5 不適切なドラマ
このテーマで書き始めてから、なんともすごいドラマが始まりました。
宮藤官九郎さんの「不適切にもほどがある」
現代と私の青春時代をタイムトリップするのです。懐かしき昭和の時代を細部に渡って再現してくださり、まさに「昭和あるある」の詰まった作品。
改めて時代を比較すると、いつもは「便利になった」ことについて書いていましたが、世間の事情はすっかり不便?になったのだと思います。
ちょっとエッチだったり、下品だったり、先生がスパスパタバコを吸ったり、ケツバットをしたり。
「ケツバットは暴力じゃない」のセリフの意味が刺さります。それに比べて現代のテレビのディレクターは不適切発言にドキドキ。麺がシコシコもだめ
「じゃ、なんて言えばいいの?」と答えるMCの反応はごもっとも。
確かに昭和は「やりすぎ」だったところもあるでしょう。でも今ほど制約を厳しくする必要があるのか?まさにこれも便利と不便のどの辺の間が良かったのか?
先日うちの生徒と話をしているときに別の子の話になり、私がつい「ほら、あの太ってる子」と言ったら「先生太ってるなんて差別用語だよ、人の肉体のこと説明するのはいけないんだよ」と言われました。
はあ???
確かに「太っている」は一般的にもいいイメージはないとなれば私の発言はいけなかったのかもしれません。でも、、ならばどんな人物か説明する時、肉体的なことを説明しないとしたらどうすればいいのか?
「痩せてる」は差別じゃないのか?「背の高い」は良くて「背の低い」はダメなのか?何か言えば「その言葉で傷つく人がいる」なんてテレビは100%誰も傷つけずに放送できるはずがない。というか傷つけてるんじゃない、受け止める方が悪く解釈して、クレームをつけることあるんじゃないのか?
その子の言葉に気づかされたことは、言葉が差別か?差別じゃないか?の判断は「言葉」だけで決められないのではないか?ということです。
あだ名の時にも書きましたが、言葉としてネガティブに仕分けされても、それが通るのは、人間の信頼があるからで、今もっとも欠落していることはその信頼とかコミュニケーション能力。
このドラマで昔はあった人間同士の正直な気持ちとそれを受け止める心が伝わってほしいです。