「なんのために生きてるのかわからない」って思ったこと、ありますか?
最近のわたしは、
『なんのために生きてるのかわからない』
が、ずーーっと頭の中を占めている。
なんとも言えない「空っぽ感」に襲われています。
あえて「空虚感」と言わないのは、虚しくはないから。
苦しいとか、辛いとか、そういうものではなくて。
ただ、ひたすら「空っぽ」なのです。
半世紀生きてきて、こんなことは初めて。この正体は何なのか、ずっと考えていた。
そして昨日、やっとわかった!
「役割」がなくなったからだ!
そう。家での役割がなくなったのです。
外で働いてる時間は「パートのうりさん」という役割がある。
そして家ではというと・・・。
結婚するまでは「〇〇さん家の娘さん」
結婚してからは「〇〇さんの奥さん」
「〇〇さん家のお嫁さん」
はたまた「〇〇くんのお母さん」
という役割があった。
それが今は、ない。
去年離婚し、息子が寮に入り、家での役割がなくなったのです。
一人暮らしを始めた当初は「ヤッホーい!自由だぜぃ!」って、晴々した気分だったのに、生活が落ち着いてきたら、突然その「空っぽ感」はやってきた。
‘’役割を生きる‘’とは、その役を演じないといけないから、窮屈。そこから解放されたらハッピーになると思っていたのに。
そんな折、一冊のKindle本にであいました。レビューの評判が良かったので週末ダウンロードしておいたのを、昨夜一気に読んでみた。
読んでいて、ちょっと驚いた。ここ数日、私がnoteで書いたワードがいくつも出てきたから。
「違和感」「内なるセンサー」「みんな凸凹」「社会の歯車」「子ども達が生きやすい未来」・・・。
そしてこの本のメインテーマは「社会貢献」。
そこで私は勝手に納得した。「ああ、これが答えだ」と。
私の「空っぽ感」を埋めるもの。
「社会貢献」というと大袈裟だけれど、自分サイズに要約すると「人の役に立つ」ということ。
少し話は逸れますが、私は人生で2度、脳内に何やらすごい物質が分泌されたことがある(←本当にこういう感覚だった)。
それは「人助け」をした時。
一度目は30年近く前、イギリスに留学していたときのこと・・・
英語の話せないアラブ系のおばあちゃんが、「モスク、モスク」と言って不安げに近寄ってきました。思い当たる所があったので、手を繋いで連れて行ってあげると、モスクの前で待っていた方々と、抱き合って喜んでいました。と、そのおばあちゃん、こちらに戻って来ると私の手を取り「サンキュー」と言って頬にキスをしてくれました。
二度目は10年ほど前、ゴミ捨てに行ったときのこと・・・
その日は雨でした。ゴミを捨ててふと目線を上げると、向こうから足の不自由なおじいちゃんが、片手に傘を差し、もう片方の手で杖とゴミ袋を持ってヨタヨタと歩いて来ました。私が駆け寄って「ゴミ、捨てて来ますよ」と言って預かると、とても嬉しそうに笑ってくれました。
この時共通して、私の脳内に分泌された物質は、恐らく‘’セロトニン‘’。アラブのおばあちゃんの笑顔も、近所のおじいちゃんの笑顔も、わたしに最高の充足感を与えてくれたのです。
べつに‘’社会貢献‘’なんて大それたことでなくていい。あの時のように、私にできることをすればいいのだ。
昨夜そう思い至ったら、胸がドキドキして眠れなくなってしまった💓
きっと私にできることなんて”ありんこ”レベル。それでも何ができるのか、ぼちぼち考えてみようと思う、ウリ子でした。