他者といる技法 ──コミュニケーションの社会学 奥村 隆 (著)
読書感想文です。
割と解説気味に書いてしまっているので、雑すぎる要約みたいになってしまったかもしれません…
6章に分かれており、1〜5章は既に存在する「社会学」の論文を引用しながら「社会」がどのように形成され、どのような矛盾を孕んでいるのかを淡々と解説していきます。
1998年に発行され2024年に文庫化されたという経緯を持つため、引用する論文が少々古めであったり、あとがきで著者が触れているようにすこし堅苦しく読みにくい文章が続くところがあるので、その辺はちょっと頑張って読む感じになりました。
「他者といる技法」というタイトルにあるテーマは6章の最後の方で語られています。著者の誠実な人柄がこの最後の「他人との関わり方」に関する考えやあとがきなどに現れていて好ましく感じました。
それぞれの章ごとに気になった文を引用したり、それに対する感想などを軽くまとめていきます。
序 章 問いを始める地点への問い─ふたつの「社会学」
ちょっと長い。とにかく5章まではいろんな形式の社会学の論文を用いて、人間社会がどう形成されてどういう問題を抱えているのか、なるべくフラットな視点で解説したいなっていう感じのことを一生懸命説明されている。
第1章 思いやりとかげぐちの体系としての社会─存在証明の形式社会学
人は他者に承認されることで自分の存在を証明できる。
それを「敬意をお互いに分け合うことで社会が成り立つ」という表現で説明している社会学者もいる。
大抵の社会は「思いやり」という形でお互いに承認を与え合うことで「安全な社会」を築いている。
でも「思いやり」によって思ってても言わないとか、謙遜するとかという結構同調圧力的なものが高まってしまうし、不満などは「思ってても言わない」ので歪みが出てくる。それはしばしば「ここだけの話」とか「酒の席だから」という感じで「あの人ってちょっと気遣いが足りない時あるよね」みたいな陰口として表出する。社会ってそんな感じの側面あるよね。っていう感じの話
ところでここで「思いやりフィルター」に馴染めない、"ゴフマン"さんという昔の社会学者に言わせれば「感受性が鈍すぎ、機転にとぼしすぎ、…思慮がなさすぎる者」が出てくる。「安全な社会」に生きている人たちは安全を壊されるのを恐れてやんわりと排除の姿勢をとる。
排除された側は攻撃に転じやすいと私は思っているのだけど、こういった「社会性フィルター」を上手に使いこなせなかった人たちがいつもインターネットで大喧嘩している人たちなのかなとふと思ったのでした。
インターネットで大喧嘩している人たち、すみません。ゴフマンさんがあまりにもストレートすぎて。
承認し合う社会の説明で、他者に「承認」を求める時、「主体」「客体」という関係ができるというものが出てくる。
「主体」側はざっくりと主導権を握る側、承認を与える側、自分自身をコントロールしている側、
「客体」側はざっくりと与えられる側、承認される側、相手のコントロールの影響を受ける側として私は捉えました。
この主体・客体のバランスがお互いの間で取れているといい人間関係だよね(すごくざっくりとした感想)
そして、毒親持ち座談会(※ものすごく過激な発言が出てきます)とかを聞いてると、どうにも自分を過度に「客体」、常にジャッジされる側、与えられる側、そして捨てられる側という認知の歪みによって苦しんでいる人がいる…というふうに思ったのでした。
第2章 「私」を破壊する「私」─R・D・レインをめぐる補論
この章では統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれていた)について解説した論文について説明しています。
ただ、この論文も古いので統合失調症を「アイデンティティが壊されかけた人がつらい現実から自分を守るために起こす精神的な現象」というような解説をしているので、ちょっとそこは気をつけて読まないといけないと思う。
現代では統合失調症は(確かに強いストレスなどが契機になるけど)脳のバグとして認識されているし、薬物治療も可能です。
(あと、統合失調というよりも「自分の心と体を切り離して辛い状況を切り抜けようとする」というような説明もあり、現代では統合失調症とは別のものとされる「離人症」「解離」と呼ばれる症状もその論文の中で混ざっている)
ともあれ統合失調症様の症状を示す子供の親がとるコミュニケーション方法は、
「承認(理想的)」
「否定(理想的ではないが、一応一貫性はある)」
「無効化・ダブルバインド」
のうちの「無効化・ダブルバインド」の形式を取っているケースが多いという研究がある。
例として、
「私たちはなんでも言い合える家族だね」と言う母親に、娘が「なんでも言い合えるなんて嘘。お母さんなんて嫌い」と言い出した時、
「あなたはいい子だから本当はそんなこと思っていないって、お母さん知っているわ。ほら、本当に思っていること(母親にとって都合のいいこと)を話して」と娘の言葉を無効化し、さらに矛盾した命令を出す(ダブルバインド)。
ダブルバインドがどれだけストレスを与えるかはいろんな人が経験していると思う。それこそ社会の理不尽の一つに数えられる、「こっちは忙しいんだ。いちいち聞かずに自分で考えてやれ!」の後の「なんで聞かなかったんだ!」とか。さっき自分が言ったことくらい覚えとけや、って思っちゃうよね。
第3章 外国人は「どのような人」なのか─異質性に対処する技法
この章では、当時の外国人留学生、外国人労働者などの「日本人にとって異質な存在」に対して社会がどのような反応を示してきたかを新聞や週刊誌等の記事を収集して解析していく。
得体の知れないものに出会った時の人間の反応として、「怖い」「汚い」「かわいそう」などのワードが出てくる傾向にある。
「怖い」──相手が何をしてくるかわからなくて怖い。加害されるかも知れない。社会から排除しよう
「汚い(意地汚いなどの意味も含むと思う)」──社会に存在はさせるが相手を同じ感情を持った人間として扱わずひどい差別をすることで共存する。
(黒人の奴隷化や、ミソジニーやミサンドリーのように相手を人間扱いしなくていい、不当に扱っていいというやり方に通じていると思う)
「かわいそう」──同情によって援助などを主軸として関わっていくというポジティブな側面があるが、相手を"客体化"、自分に対して何か影響を及ぼしてこない存在として閉じ込める。これもある意味相手をさまざまな意志のある人間として捉えていない。
(これは障害者への態度の問題としてもよく見られるよね)
一番いいのは、あなたもわたしも同じく善性も悪性も持ち合わせたひとりの人間だよねと認めて付き合っていくことだけど、 あまりにも相手が異質すぎてそう思えないときに上記の「怖い」「汚い」「かわいそう」の枠組みに収めてしまう傾向にあるよね。いまの私たちはどう?という問いを投げかけて終わる。
第4章 リスペクタビリティの病─中間階級・きちんとすること・他者
この章は結構興味深かった。
16世紀ごろからブルジョワなどの階級ができてきて「リスペクタビリティ」…尊敬されるような、きちんとした、上品で品行方正な振る舞いをするべきという価値観が生まれ始める。
「きちんとした人」であろうとすることは素晴らしいけど、同時にそれが病を産むという側面があるという感じの話がいくつか紹介される。
リスペクタビリティに関しては大体3つの層に分かれていて、
リスペクタビリティを最初から持っている、そもそも親の世代からして経済資本、文化資本、社会資本に恵まれていて子供の頃から自然に品のあるふるまいを身につけてきた層と、
最初から持ってはいないけれど品行方正であろうと努力してリスペクタビリティを得た層、
そもそもそんなもん知らんし関係ねえよというちょっと乱暴な世界に生きている層。
多くは中間層、「努力して身に付けた・身につけようとしている」層だと思う。
そして理想はなかなか遠いのでありたい自分と今の自分の間にギャップを感じて葛藤を感じるし、時にはがんばりすぎて病的になってしまう。
これは親ガチャというか、愛情やまっとうな社会性を家族によって与えられなかった人たちと通ずるものがある。ほとんどの人は何かしら自分の中に足りなさや満たされなさを感じてギャップを埋めようと頑張ってるんだよね…という感想を持った。
そして「品行方正でありたい」という市民感情を利用して、「異なる行動原理で動いている異質な存在」=「ユダヤ人」を自堕落で悪質な存在としてレッテルを貼り、それと違って私たちは正しいのだ、という感情に訴えて社会全体をコントロールしたのがナチズムだという解説がある。
リスペクタビリティな自分でありたいという本来すばらしいはずの欲求が他者を傷つけたり病を産んだりする可能性がある。
それを知っているけれど、自分の責任で、自分のリスペクタビリティを選択したということを引き受け、向き合い、過激にならないよう制御していく知恵をつけていこうねというような感じでこの章は締め括られる。
第5章 非難の語彙、あるいは市民社会の境界─自己啓発セミナーにかんする雑誌記事の分析
これも自己啓発セミナーなる「異質なもの」に対してメディアがどう反応してきたかという社会学的な解説になる。
「2ヶ月の受講で500万取られた中年男性」みたいな記事タイトルとかも紹介されていて、
「社会に承認されていないという孤独感を感じている"おぢ"は、いただき女子がいない時代には怪しいセミナーに搾り取られていたんだな…」と思ったのでした。(なお、この手のセミナーは10万〜それこそ500万と価格帯はまちまちで、通ったという男女比は同じくらいだそうです。孤独なのは"おぢ"だけじゃないよね)
セミナーの内容はその当時潜入取材をしたという記事の内容を見るに、「他者からの承認を得られていないと感じている人に承認を与えて高揚感を感じさせる」というような内容で、これはまさにいただき女子りりちゃんがやってたやつや…!という感じでした。
自己承認(自己肯定感)が低いことで悩んでいる人は、現代は「認知行動療法」という臨床心理学に基づいた認知の歪みを治す治療(トレーニング)があるのでそれを受けてみるほうが自己啓発セミナーに行くよりいいと思います。現代に自己啓発セミナーがまだあるのかは知らないけど。
第6章 理解の過少・理解の過剰─他者といる技法のために
5章までは社会というものがどういうふうに成り立ち、どういう矛盾を孕んでいるのかみたいな解説が多かったけれど、ここでようやく「他者といる技法」という言葉が出てきます。
他者との関係では、「理解されたい」「理解したい」みたいな感情が前面に出てくることが多い。
雑に要約すると、他者を理解するというのは「私があなたの立場だったら、こう感じると思う」という類推から成り立っているものなので、生きる環境や感性が近ければ近いほど正解に近いコミュニケーションを取れると思う。
「理解の過小」── 相手とのコミュニケーションにおいて最初に「こころ」を「理解」するところから始めるべき時、いきなり身体的暴力や性的なまなざしによって、「身体」に照準して関与してこられる、これは私たちに大きな苦痛を呼び起こす。
また、相手を想像、推測できるパターンが少なすぎてあまりに大雑把に型に嵌めて決めつける(レッテル貼りをする)ことは差別に繋がり、これも苦痛をもたらすものである。
ある程度良好な関係を保てていたとしても、「気持ちを推測して慮ってほしい」と思っても大抵は完全に叶えられることはない。そういうとこで人はすれ違って苦しんだりする。
「理解の過剰」──むしろ相手が完全に自分の心の全てを読み取れたら?自分もあらゆる人の心を完全に理解できたら?めちゃくちゃ苦痛に違いない。たぶん善良な人なら「わかる」相手の望むことに応じようとしてしまうけど、みんな考えてることは違うので矛盾しまくりでがんじがらめになってしまうし、心の中にしまっておくような自由な思考が許されなくなってしまうし…いろんな説明がされていたけど、とりあえず過剰に「理解」して自他境界を破壊してもいいことは何もなさそうである。
それでは、どうやって「わかりあえない」他者と共存していくか?
5章まではあくまでもなるべく論文的に、淡々と社会という現象を説明してきたけれど、6章の最後の方で著者の不器用ながら誠実な人柄が透けて見えてとても好ましく感じました。
あとがきにもその真面目さ、誠実さ、そしてちょっと可愛らしいような面が滲み出ています。
著者の奥村氏は今も教鞭をとっていらっしゃるようだけど、人生のよき先達として慕われているといいなと思います。
最後にアマゾンのリンク貼っておきます。アフィリエイトとかはついてないので気になった方はどうぞ。