
氣比神宮(福井県敦賀市)に参る〜かみほとけ巡拝紀行vol.5〜
こんばんわ 唐崎夜雨です
4月23日 福井県敦賀市の氣比神宮を参拝
ちょっと日が経ってしまいましたが
お気になさらずに
句読点をつけずに書いてまいります
ご承知おきください
氣比神宮へのみちのり

氣比神宮のある福井県敦賀市は
この春開業したばかりの
北陸新幹線 の駅がある
先の大型連休は
氣比神宮を訪れた人が多かった
かもしれない
唐崎夜雨が訪れたのは連休前の平日
しかも朝から芳しくない空模様
決して参拝者が多いとはいえない
されど 個人的にはありがたい
人の多いところが苦手なもので
前夜 東京を夜行バスで発ち
この日早朝 京都へ
京都駅から
特急サンダーバード1号に乗り 敦賀へ
所要時間は1時間弱
京都駅の次の停車駅が 敦賀駅
特急の乗客のほとんどは
北陸新幹線に乗り継ぎ
敦賀駅を降りる人は少ない

新幹線の敦賀駅舎は
新しく大きく立派なものだが
在来線の敦賀駅は
地方の駅らしい少し寂しく風情がある
旅情と旅愁に感じ入る古い駅のほうが好き
人間が古いから詮方なし
敦賀駅西口から徒歩15分か 20分ほどで
氣比神宮につく
北陸道総鎮守であり越前国一之宮である
と称される由緒ある古社
重要文化財でもある木造大鳥居が
堂々とした風格を感じさせる


この鳥居は両足の前後に稚児柱が建ち
てっぺんには屋根がついている
両部鳥居とよばれる形式で
神仏習合の名残ともいわれる
気比神宮の神宮寺は文献によると
霊亀元年 西暦七一五年創建となり
全国の神宮寺の中でも最古級となる
現在は廃寺
松尾芭蕉『おくのほそ道』の氣比明神
松尾芭蕉の おくのほそ道 によれば
元禄二年春
江戸を発った芭蕉は みちのく から 北陸 へとまわり
八月十四日に敦賀へたどりつく
もちろん陰暦
翌十五日は仲秋の名月
十四日の夜は月が ことに晴れていた
明日の夜もかくあるべきにや といへば
越路のならひ なほ明夜の陰晴はかりがたし と
あるじに酒勧められて 氣比の明神に夜参す
仲哀天皇の御廟なり
社頭神さびて 松の木の間に月の漏り入りたる
御前の白砂 霜を敷けるがごとし
往昔 遊行二世の上人 大願発起のことありて
自ら葦を刈り 土石を荷ひ 泥渟をかわかせて
参詣往来の煩ひなし
古例今に絶えず 神前に真砂を荷ひたまふ
これ遊行の砂持ちと申しはべると 亭主の語りける
月清し遊行の持てる砂の上
十五日 亭主のことばにたがはず雨降る
名月や北国日和定めなき
夜雨の訪れた日も あいにくの空模様
げに 定めなき北国日和なりにけり
大鳥居から参道をすすむと左手に
手水舎 鳥居 そして廻廊に囲まれた社殿が
南に面して建つ

気比神宮の神々
御祭神は七座
平安時代に記された延喜式神名帳にも
七座 とある

本殿に
伊奢沙別命
仲哀天皇
神功皇后
本殿の周りに建つ四社の宮に
日本武尊
応神天皇
玉姫命
武内宿禰命
主祭神 伊奢沙別命 は
神代の昔からこの地で祀られていた神
飛鳥時代の大宝二年 西暦七◯二年
社殿造営の際に仲哀天皇ほかの神々を
合祀
日本書記によると
仲哀天皇は角鹿の笥飯宮に滞在し
神功皇后はここから山口穴門へ出航
仲哀天皇も神功皇后も敦賀にゆかりがある
四社の宮に祀られている
日本武尊は 仲哀天皇の父上
応神天皇は 仲哀天皇 神功皇后 の皇子
玉姫命は 神功皇后の妹とされ
武内宿禰命は 仲哀天皇の臣
芭蕉の句碑と像
氣比神宮の境内に芭蕉の句碑と像がたつ
芭蕉の句碑は横長で
月の句が五つ連なる
正面から写真撮影すると自分が映る

句碑に刻まれているのは
国々の八景更に気比の月
月清し遊行の持てる砂の上
ふるき名の角鹿や恋し秋の月
月いづく鐘は沈める海の底
名月や北国日和定めなき
芭蕉は敦賀の月夜に十五句詠んだ
さほどに敦賀は月の名所らしい
大垣の俳人 宮崎荊口が残した
芭蕉翁月夜十五句
大垣は おくのほそ道 最後の地
旅の興奮さめやらぬうちに
書き留められたものか
じつはこの横長句碑の裏手にも句碑あり
上の写真の右端にうつっている
そこには
なみだしくや遊行のもてる砂の露
と刻まれている
砂の露 は 砂の上 の句の初案らしい

これら句碑のとなり
ちょうど氣比神宮の社殿と向かいあう形で
旅路をゆく芭蕉の像が立っている
わりと大きな像で
目の位置が彼の足元にくる
そのまま写真におさめてみた

さて次回は氣比神宮の境内社を巡ります
ではまた