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令和七年乙巳 初詣 浅草寺弁天堂ならびに銭塚弁才天

タイトルの通りやっとこさっとこ初詣です。松がとれてもその年最初のお参りですから「初詣」に違いはない。

1月12日午前10時ごろ、東京は浅草あさくさ浅草寺せんそうじに参る。境内はかなりの参拝客でにぎわっている。三連休ということもあるのでしょう。露店もならびお正月気分まだ覚めやらずといった感じもあります。

こうなると観音さまにお参りご挨拶をするのも時間がかかる。というわけで浅草寺には来たけれど観音さまへのご挨拶はまたの機会に譲ることにした。

浅草寺観音堂

もともと観音さまへのお参りは混雑状況をみて決めるつもりでした。観音さまから歩いても近いところに住んでいますので、いつでも来れるという思いがある。
他に今日を外せないところがあるので、そそくさとそちらへ向かう。

1月12日は巳の日。巳の日は弁天さまのご縁日。通常閉められている浅草寺弁天堂の扉が巳の日には開かれる。
まして今年は巳年。巳の年最初の巳の日が1月12日。偶然にも仕事がお休みだったので、この日は弁天さまにお参りしようと考えていた次第。

弁天さまは弁才天とも弁財天とも書かれる。弁財天の表記は福徳財宝の御利益が強そうな印象をあたえるが、本来は弁才天が正しい。
旧字で書くと辯才天。この「辯(弁)」は、弁論、弁護、弁舌、大阪弁の「辯(弁)」であり、「ことば」を意味する。つまり「辯才天」は「ことばの才能の神さま」という意味がある。
七福神で描かれる弁天さまは琵琶を持たれた麗しい女性だが、仏教の弁天様は八本腕の戦闘神が多い。この変遷も興味深いところだ。

弁天さまの来歴はまたの機会に譲るとして、こうしてnoteで文章を書こうというのだから、「辯才天」のご加護はお願いしたいところ。

浅草寺の境内の南東に小山があり、ここに弁天堂が建つ。観音堂は大混雑だが弁天堂はそうでもない。雷門から仲見世を通り抜けて本堂へ向かうルートから外れているのでご存じない人も少なくないかもしれない。訪れたときは6人くらい並んでいらっしゃった。こちらはおそらく熱心な弁天さま信者だと思われる。

浅草寺弁天堂

お堂の扉が開かれて焼香が置かれる。御厨子の中にいらっしゃると思われる意外と小さな弁天さまの御尊像を拝し、と言いたいところだが視力があやしくあまりよく見えない。
もはや観念想念の世界で弁天さまと向き合い合掌。

浅草寺弁天堂の弁才天は老女弁才天と呼ばれる。白髪らしい。関東三弁天のひとつに数えられているという。
江戸の下町界隈だと不忍池の弁天さまがよく知られているが、あちらは江戸時代の創建。浅草寺弁天堂はもっと歴史が古いことになる。小田原北条家の信仰が篤かったと伝える。

ちなみにこの弁天山には鐘楼がある。芭蕉の「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の浅草の時の鐘である。

左:浅草寺弁天堂、右:時の鐘

さて、浅草寺の境内にはもうひとつ弁天さまがいらっしゃる。
本堂の西側、小さな池の端に、池に背を向けて建っているのが銭塚弁才天である。こちらは一間社流造の神社建築の趣があるが屋根は瓦屋根になっている。

浅草寺銭塚弁才天

江戸時代にはもうすこし西の淡島堂の近くに建てられていたようです。そして現在の弁天堂の老女弁才天を銭瓶弁才天とも呼んでいたので、銭瓶弁天と銭塚弁天のふたつが浅草寺境内にあることになる。

『小田原記』および『北条五代記』などに下記の話が記されている。
大永二年(1522)九月に北条氏綱の使いとして富永三郎左衛門なる家臣が古河の御所への帰りに浅草寺を参詣。おりしも観音さまのご縁日の十八日のことなので境内はたいへんな賑わいをみせていた。このとき弁天堂のあたりから銭が湧き出ることあり。富永、奇異の想いをなし帰りては氏綱にこのことを伝えたとある。

浅草寺銭塚弁才天

銭が湧出したのではなく、実際には銭の入った瓶が掘り出されたとも言われている。いづれにしても、言葉のご加護のみならず、銭の御利益もありそうな弁天さまでございます。

さて、今年もゆるゆるっとではありますが神社仏閣に参拝しようと思ってはいます。このところ、どちらかというと神社へ心が向いていたような気もしますが、これからはお寺さんにも伺おうと思っております。

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