AEDに関して思うこと~救命を躊躇わせるものとは何か

こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。

今回はタイトルにもある通り、SNSなどで定期的に話題になる、AEDの使用に関する諸問題について考えてみました。

…と、言いつつですが。
この「AEDが定期的に話題になる」というのは、だいたいの場合、

「男性が女性に対してAEDを使用する時の、❝配慮❞ の話」

に辿り着くのですよね。

でも、この「女性への配慮」なるものを突き詰めて考えてゆくと、たとえどう配慮しようとしても、

100%の「配慮」が出来なければ意味が無い

だが100%の配慮は実質不可能

配慮しようと考えること自体が無意味

という結論に近づいてゆくのです。
その話を、色々な事例を踏まえながら見ていこうと思います。


まず最初に物申したい、一つの記事


初っ端からいきなり異議申し立てなのですが。
この話題に関して、数年前からずっとモヤモヤしっぱなしのネット記事が一つあるのです。

それは、AEDの製造メーカーでもあるフィリップス社が公開している、AEDの利用に関する意識調査の記事です。

前述の「配慮」に関する意見を投じているもので、それはそれで構わないと思うのですが、途中に出てくる数字が印象操作にしか思えない代物で、それがずっと納得できずにおります。

実際、後述しますが、この記事はAEDの男女使用論争を煽ったきっかけの一つでもあります。

その問題の記事が、こちらです。

私が問題だと感じたのは、記事中に出てくる下記2つのアンケートにおける、選択肢の不自然さです。

アンケートその1

設問は「ご自身が職場や駅のホームなどで倒れて支給の救命行為が必要になり、AEDを使うために異性に衣服を脱がされたら、それに不快感を感じますか?」です。

不快感を感じるか、という設問なのですから、これに対する選択肢は、

 ①はい
 ②いいえ

の2つだけでよいのでは、と思うのですが、本記事ではもう一つ、

③不快感までは感じないが抵抗がある

という選択肢を加えて、上図を見てわかる通り、その③こそが、まるで男女それぞれの最たる主張かのように、わざわざ色分けし、さらには女性の方だけ拡大表示しているのです。

これをパッと見ると、まるで「数多くの女性が、男性にはAEDを使って欲しくないと思っている」といった印象を受けませんか?

もう一度設問を思い出してみましょう。
ここで本来尋ねているのは「不快感を感じるか?」です。

回答者の中で「不快感は感じない」と考えているのは、実際には「①はい」を選択した人以外全て、つまり選択肢で②または③を選択した人です。
それを元に考えれば、

男性:②77%+③20%=97%
女性:②14%+③70%=84%

と、実は女性でも8割を超える人が、男性に衣服を脱がされる事態になったとしても不快感はない、と考えている、ということになります。

そして、この選択肢③の、「不快感は無いが 『抵抗がある』」の部分についても、どうか冷静に考えてみてください。

いくら生命がかかった事態とはいえ、衆人環視の中で衣服を脱がされることに「全く抵抗がない」と思う女性は、普通に生活している感覚からすれば、別に特異でもないのではないでしょうか?

とはいえ、これはAEDに関する真面目なアンケートなのですから、「①はい」か「②いいえ」の選択肢2つだけだったなら、非常時であることを鑑みれば、生命には代えられないと考えて②を選ぶ人はもっと多かったはずです。

が。

そこにもう一つ、

③不快感までは感じないが抵抗がある」

などという選択肢があったら、平常時の感覚を捨てきれないままで回答するならば、

「あー……まぁ正直に言えばコレかな……」

と、ついその選択肢にマルをつけてしまうのは、ごく一般的な羞恥心を持つ人間の感覚からして、さほど責められるようなものではないのでは、と思うのです。

という風に、この選択肢は、この選択肢③に誘導してそれをクローズアップする記事を書くために用意されたもののような印象を受けるのです。

さらには、全く同様のアンケートがもう一つ出てきます。

アンケートその2

設問は「ご自身が救助する立場になった時に(家族などの親しい人以外)、意識がない傷病者の上半身の衣服を脱がせることに抵抗ありますか?」というものです。

これも「抵抗があるか?」という設問ですから、選択肢は、

 ①はい
 ②いいえ

の2つだけでよいのでは?と思いますけれども、わざわざ、

③傷病者が異性の場合、抵抗がある

という選択肢を入れています。

この選択肢は、1つ目のアンケートのものよりもさらに意図的で、この選択肢にだけ「異性の場合」という条件が追加されてしまっています。

こうしたアンケートで統計を取る時には、もし条件を付加するならば、いったん選択肢を選ばせた上で、
「◯◯とお答えした方にのみお聞きします」
といった分岐にしないと正確な分析ができないのでは、と思うのですが。

さらには男性の方だけ、この選択肢を拡大表示しており、個人的な印象ではありますが、「男性は女性をAEDで助けることに対して消極的になりがちである」と印象付けたいだけなのでは、と勘ぐりたくなるほどです。

実際の記事の方も、まず1つ目のアンケートを踏まえて、

・プライバシーに配慮した救護の推奨
・複数の人の目がある中での救護の推奨

という話を展開しています。

AEDを使った心肺蘇生活動は、できれば複数の人で行うのがいいのですね。助ける人たちが人垣となれば、通りすがりの人からジロジロ見られることは少なくなります。視界をさえぎるテントやついたてがある場合は、それを使うのも効果的です。また、複数の人がいることで救命の可能性が高まるだけでなく、救助者は、倒れた人が意識を回復した後も、服を脱がしたのはあくまで救命のためであったことも立証しやすく、あらぬ疑いをかけられにくくなります

いつ、誰にでも起こりうる心肺停止の怖さ。あなたができる救助の心構え」より抜粋

眼の前で心肺停止状態に置かれた人がいて「あらぬ疑い」など気にしている余裕などあるのだろうか……というか、そんなこと本当に気にしなければいけないのだろうか、と思ってしまいますが。

そして2つ目のアンケートに関しては、

・AEDの使用によって個人が罪に問われることはない

ということを説明しています。

これは個人的には良い情報だと思ったのですが、逆に「100%、絶対に、罪に問われることはない」という確証が得られていない、という感覚を共有してしまった、というマイナス面の指摘もSNS等では少なからず見受けられます。

「AEDを使った心肺蘇生活動で、基本的には個人が訴えられることはありません。
(中略)
厚生労働省は、人命救助のためのAED使用は刑事罰、民事罰ともに「原則として免責される」という方針を打ち出し、その方針に従ったAED条例を制定する自治体も増えています。

いつ、誰にでも起こりうる心肺停止の怖さ。あなたができる救助の心構え」より抜粋

この抜粋で、太字にした部分ですね。
「基本的には」「原則として」と言われると、「ん?何かイレギュラーなケースがあるの?」と思いたくなる人がいても、それはそれで仕方がないように思います。

***

このフィリップスの記事に関しては、いくつかメディアなどでも取り上げられて、著名人の高須クリニック院長・高須先生のツイートを引き金にして反響が広まったものです。

前述の通り、おそらく記事の主旨としては「AEDを抵抗なく使ってもらうための情報共有」であって、決して配慮ばかりを求めるものではなかったのだろうとは思いますが、まるで「女性の多くが、男性にはなるべくなら助けて欲しくないと思っている」みたいに読めなくもなく、実際に高須先生のようにそう解釈して吠えてらっしゃる方もいた、というものです。

センシティブな話題だからこそ、伝え方については慎重になって欲しいなと……特に、文字ではなくビジュアルで説明している部分が最も誤解を招くような書き方になっているというのはいかがなものか、と思った次第です。

しかも、その辺の週刊誌やタブロイド紙ではなく、AEDの製造メーカーが載せている記事ですからね…。

アンケートに協力してくださった方々も、
「そんなつもりじゃなかったのに……(´・ω・`)」
と思っているのではないでしょうか。


なお参考として、防犯会社のセコムが提供しているAEDに関するコラムの中で、「女性へのAED使用をためらわないで!」という記事を一つご紹介しておきます。

女性へのAED使用をためらわないで!下着はどうすべき?

この記事では、
・女性が目の前で倒れたらどうすべきか
・下着をはずさなければならない理由
・女性へのAED使用はセクハラにはならない
といった内容が、女性医師の監修の元に書かれています。

実はよく読んでみると、こちらにも「配慮」に関する話はありまして、それらについて書いてある内容はフィリップスの記事と大きくは変わらないのですが、フィリップスの方は「アンケートによる一般女性の意識」を記事の主体にしてしまっているせいで、悪く言うと「女性がそう言っているから仕方なく配慮しなければならない」みたいな話の流れになっているのですが、こちらの記事ではそうではなく、

「とにかくまず助けろ。で、AEDを使う人間以外にサポートに回れる人間が周りにいたら、そいつらが配慮の手立てを考えろ」

と、なっていて、腑に落ちやすいように感じました。
セコムの記事は注意点や課題も箇条書きに分かりやすくまとめられていて読みやすいですので、本件について考える際にはまずこちらをオススメしておきます。


善意によって生じるリスク、という理不尽


「配慮」に関して、救護の場で最大限の努力がなされた、としても。

救護活動そのものが「セクハラだ」として訴えられることはないのか?という疑念を持つ方も、いまだ多くいらっしゃいます。

それが、AEDに関して「配慮」と双璧をなす「リスク」の問題です。

先項でも何度か話があった通り、厚労省は医療従事者以外がAEDを使用した際に生じる責務について、セクハラか否かというだけでなく、医師法などであれば本来は裁きの対象となるような事柄であっても「免責されるべき」という見解を示しています。

[第2 非医療従事者が自動体外式除細動器を使用する条件についての考え方]

3.使用者の安心の確保による積極的対応
 救命の現場に居合わせた一般市民を始めとする非医療従事者が、安心感・自信をもって、積極的に救命に取り組むことを促すようにするものであるべきである。
 上記の4条件は、業務の内容や活動領域の性格から一定の頻度で心停止者に対し応急の対応を行うことがあらかじめ想定される者が自動体外式除細動器を用いたときに医師法第17条との関係で示されたものである。一方、救命の現場に居合わせた一般市民が自動体外式除細動器を用いることは一般的に反復継続性が認められず、医師法違反にはならないものと考えられる。医師法違反の問題に限らず、刑事・民事の責任についても、人命救助の観点からやむを得ず行った場合には、関係法令の規定に照らし、免責されるべきであろう。
 当検討会が示す条件は「法違反に問われない」、「損害賠償責任を問われない」という、言わば消極的な安心感を与えるものにとどまらず、医学的知識を含め救命についての理解に立って、自信を持って救命に積極的に取り組むことを促すものであるべきである。

非医療従事者による自動体外式除細動器(AED)の使用について
(平成16年7月1日) (医政発第0701001号)
(各都道府県知事あて厚生労働省医政局長通知)

また、そもそも刑法においても、自分もしくは他者の生命を守るためにやむをえず行なった行為の免除に関する項目が存在します。

【刑法 第37条】
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状によりその刑を減軽し、又は免除することができる。

e-gov 法令検索より

当たり前といえば当たり前ですが、例えば山道を歩いていて、崖から落ちそうになった女性を助けようとして抱きとめたら強制わいせつ罪で訴えられた、なんてことがまかり通れば、誰も人助けなどしなくなってしまいますよね。

AEDの使用に関しても同様に、服を脱がせたり身体に触れたりしたことも、AEDを装着するために必要であれば当然に免責対象となるでしょう。

ただ、ここで少なからぬ人が心配している事項があります。

訴えられても十中八九は不起訴になる。と、わかっていても。
そもそも、その「他人から訴えられる」ということ自体が、一般人からすれば十分にリスクである、という問題です。

これもまた当たり前ですよね。
ほぼ確実に不起訴になるとはいえ、個人が対応するには限界があるでしょうから、大抵は弁護士についてもらう必要もあり、場合によっては費用もかかります。
仕事や家庭を持つ人が日常の庶務をこなしながら、人生で経験することなど思いもよらなかった「訴訟」という非日常な出来事に巻き込まれるわけです。

さらに「訴えられた」ということが周囲に広まれば、その仕事や日常を失う羽目にもなりかねません。

どんな訴えられ方をするかにもよりますが、容易に想像がつくのは、
「AEDを装着するのに関係のない部位まで触られた」
「服を必要以上に大きく脱がせられた」
といった辺りではないでしょうか。

訴訟を起こされる時などというのは、この「関係のない」「必要以上に」が妥当であったかどうかについても争うつもりでくるでしょうから、訴えにはそれこそ「必要以上に」誇張された表現が使われることも予想されます。

もちろん真実はそうでないとしても、事情を知らない他人は勝手なものですから、本当にそういうことがあったのでは、と変に疑う人も出てくるかも知れません。

***

「生命の危機に瀕した人間を助けたことで、こんなつまらないリスクを背負うことになるくらいなら、いっそ見て見ぬふりをした方がいい」

私はずっと、この考えを崩せる意見を見つけられません。

誰しも大切な日常があって、ただ平穏に流れている人生に水を差すような出来事などあって欲しくはない、なんて、別に特別な願いではないからです。


ノーリスクなら出来る、というわけでもない


さて。

そうした、市井に生きる普通の人間の感覚を前提として。

では、もしも、AEDを使って異性を助けた時に、絶対に訴えられる可能性がない、と分かっていたらどうなのか?というアンケートを、Twitterで試みたことがありました。

その時の結果がこちらです。

ここで注目したいのは「それでも助けない」という回答です。
男女合わせて18.8%の方が、たとえ訴えられる可能性がゼロであったとしても助けない、と答えているのです。

リプ欄や引用RTの声を拾ってみると、「助けない」に関しては以下のような話がありました。

・通報まではするが、自分で何かができるとは思えない
・その場で実際に行動できるか分からない、自信がない
・助けられなかった時に罪悪感に苛まれそう
・自分が助けたいと思える人間(近親者など)でなければ助けない
・他人の生死に関わりたくはない
・生命に対する責任など取れない

私の質問は「相手が異性であること」を条件に入れていましたが、これらの声に関しては、相手が異性かどうかはあまり関係なく、純粋に「他人の生命の瀬戸際に関わることへの恐怖/責任の重さ」というものが共通しているように感じられました。

ツイートの日付で分かる通り、アンケートを行なったのは、この記事を書くより半年以上も前です。
一度は記事にまとめようとしたのですが、この結果をどう汲み取ればよいかに悩み、下書きのまま寝かせていたのでした。


他人を救う、ただそれだけでも尊い


それでも心の片隅には「あの話はどうまとめたものか」という気持ちはずっとあったのですが。

今回また「配慮」に関する炎上の元になった記事を見た時に、何か強烈な違和感みたいなものを覚えたのです。

AEDを使う際の、プライバシーを守るための方法を高校生が考えた、というニュース記事なのですけれども。

もちろん高校生たちには何の落ち度も無く、単にAEDの利用普及のために知恵を絞ってくださったのだと思います。

ただ、私が思ったのは。
これって結局、方法論に過ぎないのだよな、ということで。

先のTwitterアンケートの数字が、ある程度は正しいとするならば。

AEDがどれだけプライバシーに配慮し、訴訟のリスクも一切無かったとしても、危機に瀕した男女のうち約18%は助けられない可能性が高い。

のですよ。
AEDがあっても、使ってもらえすらしない人が18%もいる、ということですよ。

これは決して、「助けない」と答えた人を非難しているのではありません。他人の生命を救うというのは、それだけ重い話だということです。

先述した違和感というのは、そこの乖離です。
運良く助けられた人のプライバシー云々などということで四の五の言っている暇があったら、まずこの18%を限りなく0%に近づける努力の方が先なのでは、と思うのです。

そして、生命は重いと言った通り、この18%は絶対にゼロにはならないとも思っています。

誰かの生き死にに関する責任を、ある瞬間だけでも背負え、などというのは、とても強制できるものではありません。

ましてや、「考えるより先に体が動いていた」なんていうのも、漫画のヒーローだから言えるセリフです。
日常的には「絶対に助ける」と思っていた人でも、いざとなれば身体が動かない、などということもあるわけですから、この18%という数字は、実際の現場ではさらに大きくなる可能性もあります。

***

見て見ぬふり、で思い出す話に「迷子の保護」があります。

私は以前、迷子を保護して交番へ連れて行った時に、その子供を連れ回した張本人ではないかと疑われて非常に不快な思いをしたことがあります。

善意で行なったことで疑われてしまうくらいなら、「やらないほうがいいや」となるのは、別にそれほどひどい思考だとは私は思いません。
実際に、善意の革をかぶった悪人がいるのも現実ですし、疑う方も真剣に疑わなくてはならないのが現代社会で、その疑いには悲しいことに悪意がないからです。

誰も悪いことをしていないはずなのに、役回りとして損をする人間がいる、というのが、この世知辛い世の中です。

***

だから、唯一思うのは。
そこまで全て踏まえても、恐怖を乗り越えて一歩踏み出した人間には、あらん限りの称賛のみを与えて欲しい、ということです。

逆に、いや、むしろこちらの方が大事なのですが。
そこで踏み出せなかった人間を、決して責めてはならない、ということも併せて、です。

沢山の荷物を背負っている人間に、無理やり何かを背負わせたら、もともと持っていた荷物のいくつかがポロポロと落ちてしまうかも知れません。

それでも、と助けに行った人を、わざわざ責める人すらいるのが世の常です。

身を削ってまですることか。
自分が損をしただけじゃないか。
偽善だ。

人間は、もとから自分が背負っている荷物をちゃんと運んでいるだけで、それだけで十分に立派な存在だと私は思います。

だから、それを失うかも知れない覚悟をした人間はぜひ褒められて欲しいし、そこまでは出来ないと思いとどまった人間だって別に「悪い」わけではない、と思うのです。

そういう、誰もがギリギリの自分を保って生きている世の中において、誰かの生命を救うことができた人などというのは、ただ「ありがとう」の合唱で迎えればよいのではないでしょうか。

***

AEDという非常に優れた機械が世の中に生まれたことで、あたかも「それをどう正しく使うべきか」なんてことを考える余裕が出来たように勘違いされている気がします。

人間の心には、いつだってそんなに余裕はありません。
どう使うかよりも何よりも、「まず使おう」を第一に考えて欲しいです。

(了)


最後までご精読いただき、誠にありがとうございました。

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