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1995年1月17日②

今日も昨日の続きを書いていきます。

あの阪神淡路大震災の日、わたしは神戸にいて家に帰れず不安な夜を過ごしました。

一夜明けて、翌18日のことです。
前日からずっと一緒にいた先輩についてきてもらって、歩いてわたしのアパートへ戻ってみました。

玄関入ってすぐのところにあった洗濯機はまっすぐ前に倒れていて、茶碗や皿は落ちて割れており、カラーボックスに置いていたテレビも床に転がっていました。

部屋から避難するときにどうやって出てきたのかは、覚えていません。食器の破片を踏んで怪我することなく、狭い玄関を塞いでいた洗濯機を乗り越えて出てきたはずです。

玄関のドアは歪んできちんと閉まっていなかったと思います。あぁもうここには住めないのかも、と一瞬思ったのです。

部屋の中はぐちゃぐちゃでした。
ひとり暮らしを始めるとき、まさかこんな地震に遭うとは想像もしていなかったのです。地震でもののが落ちることなど頭になく、対策もなにもしていなかったので、棚に置いていたものはことごとく落ち、壊れるものは壊れ、また部屋中が水浸しでした。

わたしの住んでいたアパート(といっても鉄筋コンクリート造りでしっかりしていた、この部屋を選んでくれた母に感謝)は、オール電化でガスは使っていませんでした。そのため、狭いワンルームの室内に巨大な電気温水器が設置されていました。それがこの地震で倒れ、部屋のど真ん中に鎮座していたのでした。そのために、タンク内の水が部屋中にあふれだしていたのです。

その光景を思い浮かべると、さてわたしは、どこで寝ていたんだろう? と疑問がわきます。フローリングの上に、電気カーペットをしき、そこに布団を敷いて寝ていました。揺れで目が覚めたとき、わたしは電気カーペットごとズルズルっと何十センチも移動していました。(フローリング上で電気カーペットってのは滑るのですね)

もしかしたら、寝ているわたしの身体の上にこの温水器のタンクが倒れてきていたら、いま私はこの世にいなかったかもしれません。頭を直撃していたら一瞬であの世ゆきだったろうし、脚を挟まれて身動きが取れないまま何時間も苦しんだかもしれない。そう思うと、かすり傷ひとつなく避難できたのは本当に幸運としか言いようがないのです。

…というのは後になって、母親からいわれて、そうだなぁと思っただけで、おそらく震災翌日はそんなこと考えもしませんでした。ただただ、この状況をどうしたらいいのだろうかと途方にくれていました。
『悲しい』とか『つらい』、『怖い』とかいう感情よりも、『どうしよう』しか頭にはなかった気がします。

どうやら電気は復旧していたようです。
冷凍庫に食パンがあったので、レンジでトーストにして、バターを塗って食べることにしました。

ちょうどその時。





なんと、父がわたしのアパートまで迎えにきてくれたのです。

え!

お父さん?


ホッとした
嬉しい
良かった
これで帰れる

とは
思わなくて、その時のわたしは
え、どうしよう?
でした。

意味わからないですよね。
あとで聞くと、震災の日、父はわたしを迎えに行くと決めて、近くに住んでいた叔父からビッグスクーターを借りて、名古屋から神戸まで走ってきたとのこと。夜明け前(夜中かな?)に出発してバイクを走らせること数時間、神戸のわたしのアパートに到着したのはお昼前だったと思います。

わたしが実家に電話したのが17日の朝、その後はいっさい連絡もしていませんでしたし、父が迎えにくるとは想像もしていなかったのです。お互い連絡も取れないのに出会えたのは本当になんというか、奇跡的なことのように思えます。

ホンダのフュージョン、というバイクでした。
この手のバイクの後ろに乗ったのは初めてでした。後ろの座席の人にも座り心地のよいシートと、グリップもついていて画期的だなと思ったのを覚えています。


父と対面して
「え、どうしよう?」と戸惑うわたし
「お父さん来てくれたんやし、一緒に帰ったほうがええんちゃう?」と先輩。

いいから帰るぞ、とも強引に連れ帰ろうとすることもなく
どうするか自分で決めたら
という父。

実際になんて言葉をかけられたかは全く思いだせないけど。
ごめんねお父さん、すぐに「ありがとう」って素直に帰ろうとしなくて。

けっきょく、トーストだけは食べて
持っていたなかで一番大きなバッグに必要なものを詰めて、父と帰ることにしました。

寒いから、と背中に新聞紙を入れてもらって上着を着て。
あの頃はまだ高速道路でタンデム走行はできなかったので、した道をひたすら東へ。あのとき、道路はめちゃくちゃ混んでいて、四輪車だったらその日のうちに着けなかったと思う、と父はいっていました。神戸の街は大渋滞。二輪を選んだ父は先を見る目があったのです。


途中、たしか京都あたりだったと思います。
夕飯(そとはもう薄暗かった)をとるためにファミレスに入りました。あのときに、ごくごく当たり前のように出てきた水に感動したことを今でも鮮明に覚えています。

神戸からほんのちょっと離れただけで、こんな風にお水が普通に飲めるだなんて…と。どこにでもありそうなファミレスでしたが、店員さんが運んできた水に、大げさといわれるかもしれないけど本当に涙がでるかと思いました。コップ一杯の水に感動してそのとき何を食べたかまでは記憶にありません。

そのあとのことは、本当に記憶があいまいで
途中の山道では道路が凍っていて危なかったとか、わたしが後ろの席で舟をこいでいたから余計に慎重になったんだとかそういう話はあとで聞きました。
前日、前々日とほとんど睡眠をとっていなかったわたしは、バイクの後ろで睡魔と戦っていたのでした。よく無事に家まで帰り着いたものだと思います。


そんなこんなで、わたしは1日で被災地から脱出して平和な地元へもどりました。その後、いろんな友だちが心配して電話をかけてきてくれて、同じ話を何度もしては、よかったねと言ってもらったのですがいっぽうで、ひとりだけ無傷で帰ってきてしまったことを心の片すみでは罪悪感のようなものも感じていたのも事実です。

被災地ではみんな大変な思いをしているのに。
とか。
知り合いはボランティア活動をやっている、とか話を聞くたびに心が痛みました。しばらくは学校の授業も休みになるときいて、なにをするでもなく実家でぼんやりと過ごしました。


しばらくはちょっとの揺れや大きな音にもびくびくしていたし、なにより怖かったのはサイレンの音。救急車や消防車などのサイレンの音が聞こえてくるたびに呼吸ができなくなりそうになり、苦しくなったり意味もなく涙が出てきたりしていました。

27年経って、また冷静になっていろいろ振り返ってみると出てくるものですね。もう10年以上は神戸の地に足をふみいれていないのですが、また近いうちに訪れてみようかなと思いました。

まだまだ書きたいことは出てくるのですが、とりあえずこれでいったん終了しようと思います。

あらためて、父には感謝の気持ちを伝えないと!


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長谷川 知美|整体師@YouTube動画編集
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