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消極の癒し

今日、なんだか朝あまり元気じゃなく、寒いし、行かない〜と完全に消極モードで思っていたけれど、結局よく行くピザ屋に行くことになった。(写真は今日のがないので前の同じ席で撮ったもの)仕方ないので山ほどの服を着込んで、ダルマみたいになって、私にしては珍しく無愛想の塊みたいになって、連れにつれだってのっそり店に入った。

そのとき、妙な自由を感じた。
「あれ、そんどい時は人の目を見て、笑顔で挨拶しなくてもいいのか!」と、普通に店に入れたことに驚いていた。同時にそんな謎のルールを課していた自分にも驚いた。

一体どこで身についたのか、おそらく接客を6年くらいした時に身についたのかもしれないなぁと思う。よく、飛行機の酸素マスクは自分が先につけて、余裕があれば人がつけるのを手伝ってあげて、とフライトアテンダントさんが言ったりする、あの感じなのだろう。
自分に力がない時は、のっそり黙っているほうが世界のためにも良いらしい。

そして上着も脱がないまま、陽だまりの中でじっとピザを待っていた。
あまりに自分のエネルギー量低かったので、逆にもうとりわけて会話をしなかったし、ただぼうっと太陽の差し込む窓の外を見ていた。
しばらくして連れのケールとか春菊とかの緑がざくぎりにされた強めのサラダが運ばれてきて、それが結構綺麗な色だった。じっと見ていた。連れがフォークを使うのがうまく、やけに器用に葉っぱ類をその背に乗せてゆく。流石に乗らないだろう、というような平たい葉っぱも載せたりしていた。ちょっと曲芸っぽかった。
それを見ていると、なんだか「食べにきた」のではなくて、「家にいるまま遊んでいる」みたいな気分した。うまく説明できないが、「さぁーあ食べるぞ」という意気込みがゼロのまま、自分はただそこに着膨れて漫然と存在していた。

その瞬間、半端ない自由のようなものをなぜだか突如感じた。

「あれ、外食でこんなにリラックスしたことないぞ」と急に思った。

自分のストーリーを子供時代に振り返ってみれば、私は食べることが好きな子供だったので、外食のときはもう「このオーダーで好きなものを選び抜けるか?!」という生きるか死ぬかの勝負、という感じで、同時に食い意地を張っていたから、同じものを頼んだ人より絶対量の多い方の皿が自分の前に運ばれてくるように全身全霊を持って祈っていたし、そんなふうに食に対して真剣すぎたからリラックスしてなかった。まぁ、ここまではいいとする。
でもそっから先は、逆に減量などの不自然な制限が人生に入ってきてからは「食べたいけど太るかも」の緊張があり、さらにパニック以降物が食べられなくなった時期からは、外で物を食べるということ自体が怖くなったりしていたし、そのあとは常に「食べ切れるかな〜」という思いと共におっかなびっくり緊張していたのだと知った。

それが、今日生まれてはじめて、「外食時に緊張しなくていい、好きにダラダラ、家にいる延長みたいに生きたら良い」という感覚に初めて出会って、とても驚いた。

ダメな時こそ外の刺激に触れてみるのもいいのかもしれない。今はさっきより断然元気だ。だからこんな投稿なんかしたりしている。

こうやって訳のわからないタイミングで訳のわからない解放、マイナスとプラスの逆転、マイナスから発掘される「新しい生き方」があるから、哲楽ってのは面白いなぁ〜といつも思わされている。
みんな、マイナスはマイナスだけじゃないよ、ほんとに。

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