マイノリティー in マイノリティー / 五
どうもこんにちわ。メイプル楓でございます。
人の心変わりは世の常ですか…。いつの時代も受け手が辛い思いをするね。それを普通って言う人が、普通に思えない♡
連載しているから、是非、始めから記事を読んで堪能して頂きたい。
始めから読む
マイノリティー in マイノリティー/壱
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マイノリティー in マイノリティー/四
って顔になった。ムッチーは決して悪い人ではない。むしろ良い人だ。
今の時代と違い、同性愛者への理解がまだまだできていない頃の話しだ。LGBTなんて言葉は遥かもっと後にでてきた言葉だ。
人種差別とはまだ国籍だけを指す傾向が強かった。
様々な問題を抱えていても、国籍を持ち出して相手を差別する事は許されないのは当時も同じだ。
しかしセクシャルマイノリティーに否定的な考えが、人種差別に当たるという意識は低く、「特殊な◯◯」と称された人達の在り方を、まだ当時は上手く理解がデキないでいた。
ようは、分からないんだ。
たとえ差別意識が無かったとしても、これは「分からない世界」に対して否定的・排他的な観点を持っていた場合に起こるケースだ。
しかし「分からない」を分からないだけで留めておけるマジョリティーは少ない。なぜならばそれがマジョリティーだからだ。色もん扱いをしていた番組なんて良い例だ。
マジョリティーはマジョリティーの領域を持つだけの共依存性を有し、なおかつ自在だ。
その他の小さな領域を「分からない世界」として、否定的・排他的な感覚をマジョリティーの領域内で共有する。
時間が経つにつれて「同性愛=色もん」は差別となり、差別意識があっても無かってもマジョリティーは「性同一性障害」って言葉を使うようになった。
「病や障害だったら仕方が無い」というマジョリティーの否定的・排他的な考えを「正当化」しているようで仕方が無かった。
マジョリティーは、マジョリティーによるカテゴライズでマジョリティー以外を量る権威を持っているように思う。
無意識のまま。罪の意思もないまま。差別の意識も無いまま。仕方が無いと言いながらカテゴライズする。
そしてマジョリティーはこれを「普通」と言う。社会不適応者で恋愛不適応者の私は、また違和感を抱く。
マジョリティーの了解無しに、
マイノリティーの存在は無い
この縮図がどうしても上手く消化できない私は、やっぱり社会不適応者だ。端へ端へと追い込まれている感覚になる。
マジョリティーの中に理解者がいても、その犠牲と時間は果てしない。
問題を定義するためだろうか。マイノリティーを色もん扱いにしていたテレビが、性同一性障害を描いたドラマを始めた。
それは久しく復活したドラマ金八先生だった。
真面目な作品だったと思う。
誰も悪くないと思う。
脚本家も俳優の人達も真面目に取り組んだ作品だと思う。
そのドラマを見た人達も真剣に見ていたと思う。
それでも性同一性障害の理解がまだ浅い人達が役を演じているから違和感が伝わり、
そのドラマを見ている人達は、マイノリティーの存在を「特殊な◯◯」として受け止めていただけのように思った。
社会不適応者で恋愛不適応者である私は素直に思った。ただただ単純に思った。
人を好きになる「その人の気持ち」の方が大切じゃないのか…。
マイノリティーを悩ましている原因は、マジョリティーではないのか?
人を好きになる「その人の気持ち」を、「性同一性障害」といったカテゴライズが必要なマジョリティーは、正しいのだろうか?
マジョリティーの意見がいつもマイノリティーの存在を左右しているのなら、マジョリティー側の「人間性」は問われないのが不思議だ。
それを描いた作品と言うなら、どれほどのマジョリティーが「性同一性障害」と言った言葉でマイノリティーを悩ます言葉にあたると、当時に理解ができたのだろう。
そして未来はどうだろう…。未来で現在を振り返った時に「そういう時代だった」と言って、終わらす未来のマジョリティーは、当時に何を学んだのだろうか?
私はどのような場合であっても、私は私だ…。マジョリティー側の意見にも立てず、マイノリティー側の立場にも入れない。
社会不適応者で恋愛不適応者を明言して、領域内を逃げ回る自分自身を卑怯者だと自覚してしまう。
どこの領域にも居場所が無い。
私は間違いなく、マイノリティーの中のマイノリティーだ。
ではまた!次号で!
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