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【未来の仏教対談 前編】「仏教は仏法だ!キャンペーンをやればいい」石上智康さん×松本紹圭

未来の仏教ラボがおくる、あたらしい対談シリーズ【未来の仏教対談】。
今という時代をどうとらえ、これからの仏教をどう創造していくのかという若き僧侶たちの問いを巡って行われる、日本仏教界のリーダーたちと松本紹圭による対談シリーズ第一回目は、『生きて死ぬ力』(中央公論新社)の著者、石上智康さん(君津光明寺住職、浄土真宗本願寺派総長)にご登場願いました。

はじめに

I am not religious at all, but I appreciate spirituality ―― 2018年夏、世界経済フォーラム「ヤング・グローバル・リーダーズ」の一員として、英・オックスフォード大学での研修に参加した松本紹圭は、会話の中で仲間たちが「私は全く宗教的ではない。しかし霊性は大事にしている」と言うのを何度も耳にしました。しかも、その彼らの多くが、宗教や国籍に関わらず、仏教の思想や実践に関心を寄せているという事実に興味を持ちます。
「宗教離れ」が広がるのと同時に、まさにその当人たちが「目覚めの智慧と実践としての仏道」に強い関心を持つというのは、一見相反する状況です。このような、世界中で起きている宗教を巡るパラダイム・シフトを「post-religion」と表現しました。
日本においては、「post-religion」は「お寺離れ」と「仏教ブーム」という相反する潮流として現れています。「post-religion」な状況を「日本のお寺は二階建て」論で読み解くとともに、この状況への向き合い方を若い僧侶とともに模索しはじめています。
 (構成:杉本恭子

◉ 世界的な「宗教離れ」を目の当たりにして


石上智康さん(以下、石上) 
昨夏、世界経済フォーラム「ヤング・グローバル・リーダーズ」のみなさんで、オックスフォード大学で研修を受けられたそうですね。そこでの学びについて聞かせてください。私もぜひ、勉強したいです。

松本紹圭(以下、松本) 
会場は、オックスフォード大学のビジネススクールでしたが、演劇的手法やワークショップなどを用いた、より文化的な学び方をしているのが印象的でした。今は世界の変化が早すぎて、学んだ枠組みを現実に当てはめるというやり方は通用しなくなっているからだと思います。そんななかで、瞑想や坐禅など仏教的なセッションもプログラムに取り入れられていたんです。

石上 
ビジネススクールでの研修に、瞑想や坐禅が取り入れられていたのですか?

松本 
はい。研修には、西側諸国の人もいれば、アジア・アフリカ、中東など世界中から30〜40人が参加していますが、宗教者は私ひとりなんですね。いつものように作務衣を着ているので、みんなに話しかけられてよく宗教について話すんです。そこで「近ごろ、いろんなニュースを観ていると、若者の宗教離れが激しいというけれど、みんなはどうなの?」と聞くと、「私は全然宗教的じゃない」と言うわけです。

石上 
それは、ヨーロッパだけでなく、イスラム圏の若者もですか?

松本 
イスラム圏の人たち、トルコやイラン、サウジアラビアなどの人も「I am not religious at all」と言います。みんな、それぞれの国が大事にしている宗教を否定することはしないのですが、「私自身はそんなに宗教的じゃないよ」と言うわけです。研修中に、お祈りの時間が来たからと部屋を出て行く人もいません。

石上 
ムスリムの人たちがお祈りに行かないんですか?それはすごいですね。

松本 
少なくとも、研修に来ているときにはお祈りをしに行かないですね。ヤング・グローバル・リーダーズに集まっているような人たちは、地球市民的な感覚を持っているのだと思います。一方で、彼らの国のローカルな人たちはどうかというと、宗教儀礼をしっかり守っていると聞きます。

石上 
宗教に帰依する感覚も、国に属しているという感覚も強くないというわけですか。

松本 
そうです。こうなってくると、国と宗教を単純に結びつけて見ること自体がナンセンスになってきているのかなと思うんです。教育や経済レベルに従って、いわゆる既存の組織的な教団宗教 ―― 私は“組合的な宗教”と呼んでいますが ―― から、離れていくのではないでしょうか。たとえば日本では、高度経済成長期に新宗教の教団が勢力を伸ばしました。当時は、現世利益や人と人とのつながりが強く必要とされたからです。ところが、教育や経済のレベルが上がればどんどん「個」になっていくので、みんな教団から離れていく。

そのときに見出されるのが「spirituality(霊性)」です。

宗教から離れた人たちが、「自分の心をどうやって耕していくのか」に注目するようになったときに、仏教に興味を持ちはじめている。オックスフォード大学では、このような体験をしてきました。

◉ いかなる宗教団体も世俗の存在にならざるをえない

石上
なるほど、よくわかりました。あなたのお話は、イスラエルの歴史学者 ユヴァル・ノア・ハラリ氏が『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房新社)で書いていることに近いと思います。ご紹介しましょう。

俗世間の慣習や取引を疑って未知の目的に敢然と向かう旅はみな、「霊的な」旅と呼ばれる。
そのような旅は宗教とは根本的に違う。なぜなら、宗教がこの世の秩序を強固にしようとするのに対して、霊性はこの世界から逃れようとするからだ。霊的なさすらい人にとって、とても重要な義務の一つは、支配的な宗教の信念と慣習の正当性を疑うことである場合が多い。禅宗では、「もし道でブッダに出会ったら、殺してしまえ」と言う。もし霊的な道を歩んでいる間に、制度化された仏教の凝り固まった考えや硬直した戒律に出くわしたら、それからも自分を解放しなければならないということだ。
宗教にとって、霊性は権威を脅かす危険な存在だ。だから宗教はたいてい、信徒達の霊的な探究を抑え込もうと躍起になるし、これまで多くの宗教制度に疑問を呈してきたのは、食べ物とセックスと権力で頭がいっぱいの俗人ではなく、凡俗以上のものを期待する霊的な真理の探求者たちだった
――『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』より

松本 
おお!これは!

石上 
さらに、ハラリ氏はドイツで宗教改革を起こして、プロテスタントを成立させた「敬虔で禁欲的な修道士のマルティン・ルター(1483-1546)」を例に出して、「霊的な旅はいつも悲劇的だ。社会全体ではなく、個々の人間にだけふさわしい、孤独な道のりだからだ」と書いています。多くの一般の人たちは、宗教的な構造、戒律や組織を必要とするからですね。

ルターは、カトリック教会の戒律や制度に異議を唱えたにも関わらず、新しい戒律や制度をつくって、新しい儀式を考案することになり、結局は宗教制度に取り込まれてしまいました。もう少し読んでみましょう。

それは、ブッダやイエス・キリストにさえ起こった。二人は断固として真理を追究していくうちに、伝統的なヒンドゥー教とユダヤ教の戒律や典礼や組織を突き崩した。だがけっきょく、歴史上、他の誰と比べても、彼らの名において生み出された戒律と典礼と組織の数のほうが多い。
――『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』より

石上 
僕はね、ハラリ氏は巨視的に、非常にクールにものを見ていると思います。この人が言う「霊的な」旅によって見出される「真理」は、いったん布教されるとそこに組織が生まれ、いかに宗教的な組織であろうとも世俗における存在である限りは、体制が生まれて権威化され、本来の原点が崩れていく。こうした非常に皮肉な営みをするのが、宗教教団という現象だと言いたいのだと思います。

松本 
おっしゃる通りだと思います。

石上 
そういう意味で、日本の教団もまた責めを負っているだろうと思います。僕は、大事なことがふたつあると思います。ひとつは思想それ自身に対する吟味ですね。もうひとつは、いかに純粋な真理であろうとも、教団が世俗の存在となり体制ができていくという矛盾のなかで、常に原点に帰っていくための自覚と改革です。これらがないと、宗教活動としては堕落していくのではないかと思います。

ひとつめの思想としての仏教について言えば、いつの時代にも真実として訴える力がある。簡単に言うとフィクションがないということです。これについては、中村元先生が『中村元の仏教入門(春秋社)』で、はっきりとおっしゃっています。

松本 
「昔は、『仏教』とは言わず『仏法」と言ったものです」という、このくだりですね。これも少し読んでみましょうか。

仏教という表現は日本の古典にはほとんど出てきません。明治以降になって、キリスト教とかイスラーム教という宗教があることがわかってきたものですから、それらと区別するために、仏教という言葉が使われるようになりました。
ですからそれ以前は仏法と呼びました。この仏法という呼び名は、ひじょうに合理的です。つまり人間の真理、それが法である。それを悟った人がブッダということになります。したがいまして、特定の宗教というようなものを超えています。
―― 中村元著『中村元の仏教入門』(春秋社)

石上 
この世の真理、それが法、ダルマである。それを悟った人がブッダであるから、その普遍性は「特定の宗教というようなものを超えて」いるというところがポイントです。つまり、宗教を考える場合に、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などと同じレベルで、「仏法」を捉えるのは問題がありますね。つまり、無常・縁起・空・自然などという言葉で解き明かされてきたこの世の実相、真実に目覚め、それに導かれて生きていく。これが仏法の根本だということを忘れてはいけないと思います。

◉「仏教は宗教じゃない」という人たちとの出会い

松本 
仏法 ―― 私は仏道という言葉で表現しても良いと思うのですが ―― は、宗教として捉えられない。そう考えると、「I am not religious at all, but I appreciate spirituality」と言って、仏教の考え方や実践に関心を寄せるポスト宗教的な人たちは、『ホモ・デウス』で述べられた、「霊的な」旅を求めていると考えられますね。個人の「霊的な」旅を大事にする人たちは、宗教としての「仏教」ではなく、「仏法」あるいは「仏道」に注目しているわけですね。

石上 
宗教制度や教会に制約されない、個人としてね。

松本 
はい。オックスフォード大学での研修の後、「ロンドン仏教センター」に寄ってみたんです。そこは、特定の宗教団体が管理しているわけではなく、仏教に興味を持つロンドン市民が自主的に運営している場所でした。来ている人たちに「あなたの宗教は?」と尋ねると、「いや、うちはキリスト教だし家族の行事は教会でやります。私は教会には行かないけど」と言う。「じゃあ、あなた個人は仏教徒になろうとしているの?」と聞くと、「宗教を変えるつもりはないよ。だって、仏教は宗教じゃないから」とハッキリ言うんですよ。「仏教はphilosophyであり、practiceであり、spirituality」である、と。

石上 
西欧の人が「仏教は宗教じゃない」というのはすごい言葉!

松本 
そしてもうひとつは、「ロンドン仏教センター」のコミュニティが好きなんだと言っていました。つまり、彼らとしては「仏教」ではなく「仏法」そして「僧(サンガ)」に出会っているんですね。

石上 
「仏教は哲学であり、実践であり、霊性である」と言う彼らが、いったいどのようにして仏法を学んでいるのか不思議です。そこに、指導者のような人はいるのですか?

松本 
ロンドン仏教センターにはたくさん本がありますし、ロンドン郊外に住んでいる上座部仏教の僧侶、禅僧をときどき招いているようです。

石上 
私がそこで思うのは、僧侶なりテキストがなければ、仏法との接点はないのでは、ということです。従来型の寺院や教団組織、リーダーがいないと学びようがないんじゃないですか?

松本 
欧米にはすごく熱心な禅コミュニティがあるけれど、日本の禅僧から見ると型が全然なっていない。しかし、逆に言えば日本には型しかなくて、彼らのような熱意がないとも言われます。型と熱意を融合していく必要があるのではないか、というのはよく聞く話ですね。

石上 
「霊的な」発想で、個人的に真理を追求できるという利点はあるのだと思います。ところが、いわゆる一般の多くの人たちは、宗教的な権威ある人がわかりやすいメッセージを出してくれるのを求めています。要するに「お経にこう書いてある」「ご門主はこうおっしゃっている」というと、一般の人はそれを信頼することができる。このようにして、多くの人に大事なことが伝わる機能は必要だと私は思いますね。そういう点で、松本さんとはちょっと意見が違うんです。

松本 
私も、その点については同意しますし、権威が権威として機能している限りは、その力は有効だと思います。ところが、たとえば企業経営者の集まりなどでお話するときには「浄土真宗本願寺派の僧侶です」と名乗ることが逆効果になることがあります。「教団としての言葉を語るんだな」「この人自身の言葉じゃないんだな」と遠ざけられてしまい、つながりにくくなってしまうからです(後編へ続く)

世界的な「宗教離れ」に真摯に向き合う二人の対話、この後は「仏教とは」から「仏法とは?」へとさらに深まってゆきます。近日公開予定の後編もお楽しみに!

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