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会話ってなんだろね

今日もまた読んだ本について。
こちらです。


まさに現代詩とも言うべき、今作り上げられた今風な語り口で、日常的な読みやすさがある詩集で読みやすかった。
で、気になったフレーズをいくつか抜き出して、感じたことを。

好きなものはなにときかれて
答えにつまった
本は好きだけど
そんなことはもう知っているよな

「会話」より

このnoteを自分が始めたのも、好きなものを好きなように語るための練習としてで、この4行、なんだかまるで自分が書かれているようで、こそばゆい感じがあったね。
実際、「好きなものはなに」ときかれたら、相手の趣味に合わせて答えている。
それに「本は好き」ってのは、確かに質問に対する答えなんだけど、「どんな本」なのか、「その本のどんなところが好き」なのか、そういった具体的なことを言えない感じ。まさに自分のようだ。
それで、語り手は散歩に出るんだけど、その後で

汗がでて
曇り空は変わらずそこにあり
わたしは何が好きだったか
思いだせそうな気がする

ところできみの好きなものはなに
ものじゃないけれど
いいよ

「会話」より


そもそも好きなものって思いだすものなのかな。
いや、そもそもこの作品では「好きなもの」について語ることにつまるところが始まっているから何もおかしくなくて。
それで、「語る」ことができない語り手は、「聞く」側にまわるんだよね。ああ、まさに自分だなあって思っちゃった。

この詩、まさに「会話」というタイトルなんだけど、この詩集の1つのテーマとして、「会話」があると思うんだ。
それに関連するフレーズをいくつか拾い上げるね。

夜になって
カフェできみと話しているとき
わたしはわたしの読むべき本のことばかり
考えているのが恥ずかしかった。

「十二月の日記」より

これもまた何気ない4行で読みやすいね。
「会話」ってそもそも、自分ひとりではできないもので、他者が必要。だから、いつも「きみ」が出てくる。
さっきのは、「聞く」側にまわっていて、ここでもまた「聞く」側にまわることもあるだろうけれど、実際には聞いていないんだよね。それって、「会話」って言えるんだろうか。
こうした問いから「会話」ってなんだろねってことが見えてくるかもしれない。

「小説の言葉」で詰めるのではなく、
途切れがちな恋の話や
英語のfuckin'を
見るともなく眺める
時が
かかとの音を高くして
いよいよ近づくのを待つ間

「待つ間」

ちょっと表現が複雑だね。
「小説の言葉」ってのは、言わば整理された書き言葉であって、日常会話って、そんなに理路整然とされていないし、話していくうちに因果がまとまってきたりするよね。
だから、整理された「小説の言葉」と対比するように、「途切れがちな恋の話」とか「英語のfuckin'」という断片的な言葉、言わば、今までの記事でも少し出てきた「物語」として完成されていないような話や言葉を「見るともなく眺める」ということ。
だから、これはそうした会話の場面を第三者として眺めている様子なのかな。
で、こうしたことができるのは、誰かが訪れるのを待っている間ということであって、誰かとあって会話をしていたら、こうした周りの会話って意識が向けられず、耳に入らなくなるからこそ、この「待つ間」だけ「眺める」ことができる言葉があるっていうことかな。面白いね。

レコード屋の店主と好きなギタリストについて話してから店を出る。あの日きこえなかった虫の音がいまはよくきこえる。書くことは、はしたないことだと思う。

「「すずむし」と反省」

これまた会話の場面が描かれているね。
でも、どきっとするのは、「書くことは、はしたないことだと思う」という表現。え、自分もこうやって記事を書いているのは、はしたないことなのかな。
いや、はしたない、という感慨に至るまで、この語り手にしかわからない感情があって、この作品の文脈を拾っていくと見えてくるものがあったり、タイトルの「反省」にも鍵があるんだろうけれど、その考察は避けるね。

でも、違う詩のフレーズを読むと少し見えてくるような気がしていて。

背中の肩甲骨のあいだに昨夜言い返せなかったことばが凝っている。わたしは弱い矢印、きみからは何ひとつうばえない、などと、大事にとっておいた貧弱な詩のメモも、汗になってしまって、いきいきと、意味以前のこだまになる。ふるえながら、流れ出していく。

「天国と地獄」より

「昨夜言い返せなかったことばが凝っている」というのが、最初の「会話」という詩で、「好きなもの」を語るのにつまってしまった様子と重なってくるね。
そのことから、それっぽい表現が展開されているけれど、それを「貧弱な詩のメモ」と自ら断罪し、それが「意味以前のこだま」になってしまうと。
ああ、自分のようだと。
誰かと会った帰り、「ああ、言っておけばよかった」「ああ、聞いておけばよかった」とか、結構な頻度で思うことがある。そして、それを表現しようとして胸に秘めた言葉って結局は忘れてしまうし、「意味以前のこだま」として、意味を持つことなく、誰にも届くことはなく、心の声として少し唱えたぐらいで終わりにしてしまう。
そうしたことを結局こういう作品に書いてしまうことだったり、言えなかった胸のつかえを「意味以前のこだま」としてしまったりすることが、「書くことは、はしたない」と何となく繋がってくるような気がするんだ。根拠はないけれどね。

でも、この詩集通して、語り手は自らを悲観しているかと言えば、そうでもないような気がしていて。
うまく会話ができないかもしれない。言えなかった言葉が心残りになってしまっているかもしれない。でも、語り手はあることを求めている。

みんながどんなかたちをしているか
すこしずつ、理解していく。
花の屑をふみわけてあゆむ
いま、会いたいひとのささやきが
きこえるほうへ。

「はじまり」より

上手く何かを言えなかったとしても、「会いたいひと」はいるし、そのひとの「声」や「言葉」を聞きたいと思う。だから、その方へとあゆんでいく。
この部分がこの詩集で一番好き。
時には会いたくない人に会わなくちゃいけないこともあるだろうし、聞きたくないささやきや言葉もあるだろう。それとは別に、聞かねばならない声や言葉もあるだろう。
けれど、選べるとしたら、「会いたいひとのささやき」を聞いていたいと願うこと。そして、その願いをかなえるためには「あゆむ」ということ。自分からその方へと向かっていくということ。
だから、きっと「会話」が生まれ、この詩集が生まれたんだね。


久々に詩集の評の書き方を思い出した気がする。
恣意的だけど、詩集のフレーズ全部を拾うわけにもいかず、こうやって、1つのテーマを仮定し、それに関わるフレーズをピックアップすることで、1つの形をまとうことができる。
もちろん見落としてしまうテーマや表現も生まれてしまうだろうけれど、こうすると、「ああ、読んだなあ」という感慨にひたることができる、というあくまで1つの読み方として提案するね。

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