優しさってなんだろね
はい、毎度おなじみ、読書の記録。
皆さんはノーベル文学賞に興味があるかな。
正直、自分は興味があるものの、その人らの著作を読んだことはない。
そんな中で、とある雑誌のアンケート企画で、この本がよいという意見を見て、読んでみた、そんな本について。
はい、オルガ・トカルチュクの『優しい語り手』ね。
トカルチュクがどんな方かは、さっぱり知らないけれど、wikipediaか何かで調べてね。
引用したい箇所が多すぎて、これから書くものがどれくらい長くなってしまうのか、一抹の不安を抱きながら、随所随所引用多めで紹介するね。
の前に、この本の構成は2つの講演の記録が収められていて、「優しい語り手」と「「中欧」の幻影は文学に映し出される――中欧小説は存在するか――」があり、あと訳者のあとがきがあって、大体120ページぐらい。
ここで紹介するのは、このうち「優しい語り手」について。
この記事で興味を持ったら、ぜひ手に取ってみて読んでね。
「優しい語り手」の冒頭は、作者が母の若い時の写真について語るところから始まる。その写真には、作者が写っておらず、まだ生まれる前の頃のもの。
そこで、作者と母はこのような会話を交わす。
そして、作者は母との会話を通して、このような考えに至る。
「優しい語り手」ってなんだろね。
こうして、一つの結論から始まるこの講演は、紆余曲折を経て、この「優しい語り手」について、展開されている。
この後に続くのは、世界と言葉、物語、人称についての考え。
「世界は織物です」「世界は言葉でできています」という主張のもと、その物語を語るということがどういうことであるのか。
「わたしたちは、多声的な一人称の現実のなかに生きていて、至るとこから多声的なざわめきが聞こえてきます」という前提。このことを日常に置き換えるならば、確かに街中では、様々な「わたし」がいて、その会話は絶えず「わたし」が発しているものであり、SNSだとしても、全てが「わたし」による声から情報が発信されていることから実感できるだろう。
ここから、展開は「作者」や「発信者」ではなく、「読み手」や「読者」にうつる。
「物語において、語り手の「私」と読み手の「私」の境界は、簡単に拭い去られます」とあり、読み手が語り手のに感情移入することで、「ある一定の時間、語り手になりかわる」と述べている。
あれ、こうしたことって、最果タヒさんの記事から述べていたように、「わたし」が「あなた」になるとか、「あなた」が「わたし」になるとか、そういった話と通じるところがあるね。
ここまで10ページ分も進んでいないので、飛ばすと、途中インターネットのことや、フェイクニュースのことも触れつつ、映像・写真・SNSとテクストとの比較を通しつつ、「自分たちの経験を伝達し共有する方法」といった主題で展開される。
様々な情報(what)が様々な手段・メディア(how)によって伝達されるが、その中で作者は「世界はなにかが間違っています」という考えを持つ。こうした単なる「情報」と「物語」の違いについて、こうまとめる。
この部分、何度も復唱し、いつか立ち返りたい部分であり、この考えについては、自分が敬愛する野家啓一さんの「物語り論」とほぼ同義のため、非常に印象に残る。
ここで脱線して、この部分についてだけ考察していきたいが、それはスピンオフとしていつかやるとして、本題は「優しい語り手」ってなんだろね、ってこと。
作者は改めて一つの問いをたてる。
さきほどの引用に対応してくる部分ではあるけれど、この中にある「星座的形式」っていう唐突に出てくる表現。これ、自分の勝手な予測だけど、ベンヤミンがかつて論じていたコンステラチオンについての文脈を踏まえた上で言っているんじゃないかなって勝手に思っている。これについても脱線してしまうし、なおかつ、自分があまり説明できる段階にないので、これまたスピンオフがいつかできればと。
参考までに。
ね、目次にあるでしょ。
作者は絶えず、物語をいかに(how)書くべきか、生み出すべきかを問い続けている。その中で至る一つの手段として、「第四人称」という概念。
(ちなみに、第四人称という概念自体、1920年代のヨーロッパにおけるダダ、シュルレアリスムの文脈でかつて生まれたとされているけれど、これも詳しく説明できないんで、こんなのもあったよぐらいに)
だそうです。「そんな存在は可能」だそうです。
これは何も突飛な主張ではなく、先述した、「多声的な一人称の現実のなか」や「語り手と読み手の境界」とか、そういったことと関連してくると思うんだ。
つまり、語り、物語というのは、一人称の「私」から確かに始まるものかもしれない。だけど、それはあくまでも始まりであって、その声が出会った人々の声によって「私」の中へ多声的に含まれていき、時には、「私」の語りに「あなた」が境界を越えて入ってくることもある。そうしたことによって、時間・空間的に幅を持った声が「私」の中に蓄積されていき、「私」が語る時、それは一体誰の声で語られているのか、蓄積されてきた声で語ることもあるのではないだろうか。
この主張は、トカルチュクが述べていたことではないけれど、トカルチュクの意見を受けて、自分が考えたこと。トカルチュクが述べていた「第四人称」はあくまでも、物語をつくるうえでの話。
でも、自分が述べたこととトカルチュクが主張することはやっぱり関係があるような気がしていて。
「自我の限界」ってなんだろね。
やっぱり「私」が目で見て、耳で聞き、様々感じることって、「私」という一つの体を通してしかできないことであって、そうした経験できることって幅があって、限界がある。でも、他者の経験を取り入れること、その手段が他者の物語を聞く、ということであって、その時、他者の物語にある「語り手」の境界を越えて、「聞き手」の私が入ることで、「自我の限界」を超えられるんじゃないのかな。
さて、オオトリにいく。
結局「優しさ」ってなんだろね。
他者の取り込み、っていうことをトカルチュクは述べつつ、フィクションを書くということは、なにかをでっちあげているわけでなく、「書いているときは、自身の内面のすべてを感じなくてはなりません」と。そして、「本に出てくるすべての生き物と事物とを、自分を通して放出し」、「物も人も近くから、最大限に厳粛な気持ちでじっくり観察する必要があ」ると。
全てのものについて、放出し、観察し、そうすることで何ができるのかと、「それらをわたしの打ちにとりこみ、人格を与える」のだと。
「優しさ」とはそうか、「関係するすべてに人格を与え」るのかと。
この考えは新たに出会ったもので、考えもしなかったこと。
この後にも「優しさは~~」といくつかの定義が並べられているのだが、その中でも1つだけ印象的なものを。
さきほどの部分だけでは、一方的に人格を与えたり、声を与えたりする、一歩間違えれば、暴力的な愛に繋がる可能性があるかもしれないが、あくまでも「優しさ」は双方向に開かれており、こちらから与え、向こうからを受け入れるものであると。
これまでも何度も述べてきたが、「わたし」と「あなた」とのコミュニケーションについて何度も何度も述べられており、その鍵にこの「優しさ」があると。
最後に、作者はこのように述べて締めている。
ただ単に語るだけではない。
「優しさ」を持って語ることで、「人格」や「声」をその対象に与えることができる。作者は負の出来事を列挙し、それらが世界を物のレベルへと引き下げるとあるが、「人格」や「声」を与えるということは、時にその対象の想いを勝手な想像によって、代弁してしまうことにもなりかえない。それが対象の本意ではないこともあるかもしれない。けれど、ある対象について「優しさ」を持って語るということは、きっと「責任」を持って語るということになるだろう。それらについて、勝手な代弁をするのではなく、時には「私」が境界を越えて「あなた」になりつつも、最後にはこの確かな「私」が語るということ。そして、それは単一の「私」の小さな語りかもしれないが、それは時に声として誰かに届き、「生きたひとつの全体」として機能しうるかもしれないということ。「生きたひとつの全体」の一部であるという自覚もまた語るうえでの「責任」を生むだろう。
無論、誰にも届かないような、誰にも届けたくないような一人称の語りも存在しうるだろう。しかし、何らかの形――文字・声をまとった言葉は、表に出ている以上、誰かのもとへ届く可能性がある。真に誰にも届けたくないのであれば、表に出す――形にしなければよい。いや、しなければよいと断定してよいのだろうか。
トカルチュクは述べていなかったが、声にならざる声というのも存在するだろう。
「この人にだったら話せる」「聞いてくれる人がいない」と、届ける相手がいるかいないかによっても、言葉が形になるかどうかが変わることがあるだろう。そうした、文字・声にできるかどうか。この部分を更に解消してくれるのは、きっと、パウル・ツェランが述べた「投壜通信」の概念を用いればよいだろう。
具体的に文字・声を届ける相手がいなかったとしても、文字・声にすれば、「語りかけることのできる「あなた」」もしくは「語りかけることのできる現実」に届くかもしれないという希望。
それを具体的な宛て先もなく投げるということ。
見ず知らずの人に届き、それも現在ではなく、時間や空間をこえて届くかもしれないということ。
この「優しさ」の概念について、もう少し反芻しながら、これから考え生きていく。
余談だけど、読後、どう語るか(how)という点で新たな考えを得られたけれど、結局何を語るか(what)ということはいまだにわからないんだよなあ、と思いつつ、長い長い記事を終えるね。
もう1冊読んだ本についても書きたいけれど、いつになるかな。