読者と人称の重なり:お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役(穂村弘『ドライ ドライ アイス』)【まいにち一首評No.4】
注:僕は『ドライ ドライ アイス』を読んでいないので、歌集の話はできない。あくまでも一首評。
穂村弘の相問歌の中でも一番好きだ。たくさん名作がある中でも。
「鮫はオルガンの音が好きなの知っていた?」 五時間泣いた後におまえは
猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ
「おまえ」はいつも愛らしい存在である。少し抜けていて、しかし何よりも愛おしい存在。同時にこれらは全て明らかなフィクションである。文學界2024年9月号の特集「短歌と批評」における歌会では、青松輝がこのことを指摘している。
表題歌に触れる前に、上で引いた二首について考えてみる。まず『「サメはオルガンの……」』は、とにかく面白さに忠実な歌であると思う。主体である「おれ」と二人称である「おまえ」は歌の中でキッパリと分かれている。「おまえ」の台詞は鉤括弧で括られ、あくまでも「おれ」に対して外部から投げかけられた言葉として表記される。読者は「おれ」の立場に自動的に立たされ、「愛らしくて馬鹿な『おまえ』」を愛でることができる。さらにこのような構造としてだけでなく、「サメがオルガンの音が好きなこと」や「五時間泣いた」という過度に色彩の強い表現を使うことで、読者はコントを見ているような気持ちになる。読者にこんな変な彼女はいないし、彼女は五時間泣かないし、そもそもこの風景だってフィクションだろう。だから、読者はこのコントを安心して見ることができる。安心して笑うことができる。カメラに映らない、暗い客席の一角から。
「猫投げる……」も青松が指摘した通り明らかにフィクションだ。キャッチーな発話で読者の心を掴む。こちらでは作中主体は「あなた」になっているけれど、この歌では二人称を背負っている「おれ」に、あくまでも読者の感覚はリンクする。『シンジケート』を読めばわかる通り(あるいはこれは多くの歌人の作品に共通することとも言えるが)、読者は常に歌集の中に固定された「わたし」(≠作中主体)にオーバーラップさせられる。
花束のばらの茎がアスパラにそっくりでちょっとショックな、まみより
『手紙魔まみ……』に含まれる歌は「まみ」が読んだものとして書かれている。作中主体は常に「まみ」であるはずである。しかし……読者は自身を「まみ」に重ねるだろうか?「まみ」はちょっと極端な例かもしれないが、読者は常に、歌の中の人称という次元より前に、その歌、連作、歌集の背後にいる作者(≒作歌主体)に共感させられているのではないか?
つまり、(特に穂村弘の歌集では、)読者は「おれ」の靴を履かされている(穂村弘をうまく読めないというのも聞くが、それは靴のサイズが合わないとも言える)。読者は短歌を通して読者自身を見つめているのではなく、「おれ」と「おまえ」のコントを見せられているだけなのではないか。
では、今回評を行う一首に戻る。もう一度引用しておこう。
お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役
これまで散々構造の話をしているから、意味を後回しにして構造の話をする。今まで僕が書いたことによれば、この歌はとてつもないメタの視点から描かれている。それが意識的な操作でないにしても、ステージの上で行われるコント──あるいは劇を、劇そのものに喩えている訳だ。
(僕はさっき引いた2首がおもしろさに奉仕していると思ったから「コント」という言い方をしたが、それは「劇」と言ったところで同じことである。照明が当たるステージの上で、台本に沿って行われるもの。そして当然そこにはそれを見る観客が想定される。僕らの人生は観客が想定されていないが、劇やコントは観客のためにあるから。)
つまり、前の2首が「二人の劇を、観客の立場から描写する試み」であり、それは「劇(=フィクション)であること」を隠すことを意味する。一方でこの歌で作者は描写されているものが「劇(お遊戯)」であることを読者に対してあえて明示する。つまり、作者は「劇(=作中)の実質的な主体(=おれ)」であると同時に、「劇を眺める観客(=この歌を読むあなた)」の両者であるということである。だから、読者はこの歌に一つ上の次元で入り込むことができる。上の二首ではこれは不可能であった。つまり、この歌で穂村は、「おれ」を劇中の主体に名前として付与すると同時に、読者であるあなた自身にも重ねようと試みている。
では、少し意味の話をしてみる。でもやはり構造の話が関わってくる。
「お遊戯」は明らかに人生や生活のメタファーである。この歌で「君」はお遊戯の台本を覚えられない。つまり、上手に生きることができていないわけだ。
上で述べた通り、読者は「おれ」と作者の二者に自らを重ねる。では、「君」についてどう思っている?
「鮫はオルガンの音が好きなの知っていた?」 五時間泣いた後におまえは
猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ
ちょっと変で、不器用で、それでもたまらなくかわいい「君(おまえ)」への揺るがない愛情。これが上の二首に共通する想いだ。ではもしかして、短歌というフィルターを取り払った世界でも、主体(おれ)は「君」を観客として眺めているところはないだろうか。視座がどこにあるかが問題だ。
「僕」は一緒にお遊戯に出演しているのだろうか?それとも客席から見ているのだろうか?あるいは別の言い方もできる。「お遊戯」は「僕と君」の生活か?それとも「君」ひとりの人生か?
お遊戯は一人では成り立たない。「君」が「瞬くだけでいい星の役」ならば尚更だ。それ一人しかいなかったら劇にならない。
一方でお遊戯という語はたいてい保育園とか幼稚園の子供の劇を指す。子供の存在を考える時、そこには大人という観測者が想定される。当たり前だ。僕たちはもう、子供として子供を描写できないのから。つまり、「お遊戯」という語が使われるとき、そこには明らかにそれを見守る保護者の姿が想定される。それはすなわちこの歌における主体(=読者)だ。観客でもある主体は、自身と君との重なりである「生活」ではなく、君だけのものである「人生」のことを、「お遊戯」と表現できる。そしてそれは引いた二首でも現れた、いとおしい君への皮肉めいた愛の言葉でもある。それと同時に、二人の生活=お遊戯という意識も残していると思う。
書いている僕もよくわからなくなってきたので、人称、主体、作者、読者の関係を一度整理しよう。三首を並べてみる。
「鮫はオルガンの音が好きなの知っていた?」 五時間泣いた後におまえは
猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ
お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役
一首目は「おれ」と「おまえ」の立場がきっぱり分けられ、読者は作中主体である「おれ」に自身を重ねると同時に、二人の劇の観客としても機能させられる。
二首目は作中主体は「きみ」という二人称であるというねじれが存在している。これは連作の構造上、作中の主体や人称に関わらず「おれ」という固定された存在(=作者)に読者が移入させられるからである。
三首目は「おれ=作者」が作中の登場人物であると同時にそれを観測する観客でもあるため、読者はその両方に移入することができる。
三首目が特殊であることがわかる。特に、「おれ=作者」が観客側(=読者側)も担うことで、この歌の視点は二重構造になる。ここまで整理すれば、この歌の意図が読み解ける。
このようなメタ的視点を織り交ぜることで、作者が描こうとしたものは、「君」の人生と「おれ=自分」の関係性ではないか(これは「君とおれとの関係」とは全く違う)。基本的に「お遊戯」には色々な人が出てくるだろう。それで、主役は「おれ」だろうか。「瞬くだけでいい星」はきっと主役にはなれない。しかし、「君」は君だけの固有の人生を演じ、その中では「君」自身が主役のはずである。
混乱してきた。とにかく、複雑な層構造になっている。整理する。
人称と視点について
・「おれ」=作者と、読者の視点が一致する。それらはお遊戯の観客でもあり、同時に演者でもある。
「お遊戯」の意味について
・「お遊戯」は「君」だけの人生であり、「おれ」との生活であり、また一人きりであり、二人きりであり、世界全体である。
しかし、やはりこの歌の意味の中心にあるのは、「瞬くだけでいい星の役」である。これはこの歌の作者=「おれ」=読者がそれぞれが想定する「君」に対して付与する役割であって、やはりこの歌でも『シンジケート』から他に引いた2首と同じく、「愚かで愛おしい君」のようなイメージがあることがわかる。
ところで、「短歌と批評」では穂村弘が堂園昌彦の歌に対し、一首の中でループする構造は秀歌に多く見られる、ということを言っていた。言及されたのはこの歌である(歌会なので作者は隠された状態で評が行われた)。
夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに
この歌も「夕暮れ」を起点として情景を描写し、「夕暮れ」に帰っていく構造になっている。このことを穂村は「ループ」と呼んだ。
一方で、自分はこれにあまり首肯できなかった。ループ構造と秀歌に、そんなに関係性があるだろうか?結局、その構造を効果的に使いこなせる歌人の技量によるのではないか?
ただ、穂村がこのような短歌の構造に着目していることは、「お遊戯は……」でもそのような特殊な構造が意識的に使われていることを示しているのではないか。短歌の要素として構造についてもよく考えなければならない。
もう一つ言いたいことは、穂村弘の歌が現代のジェンダー平等の時代を生き抜けるのか、ということである。今回引いた三首も主体と二人称は平等に見えない。というより、主体が二人称のことをなんとなく支配対象のように見ている気がする。主観的には好きな歌だが、では令和の時代が終わっても語り継がれるだろうか。多分いま活動している歌人にとってはずっと愛唱性を持ち続けるだろうが、これから生まれてくる新しい価値観を持った歌人からまたは外部からはバッシングを受ける可能性もあると思う。
短歌の歴史も学びたい。
歴史を知らない奴に正解は知りえない