きみとカモメとわたし:初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』評
わたし、きみ。『花は泡』は、二人の生活を中心に編まれている。その描写はいつもリアルで切実で、何気なかったり大袈裟だったり、綺麗すぎず変すぎず、ちょうどいい違和感で読者の心を掴む。歌は常に主体である「わたし」による視点から描かれ、その「わたし」のそばには、「きみ」がいる。
歌集では発話の描写が多く用いられており、「わたし」も「きみ」も発話はするのだが、「わたし」の発話が具体的であるのに対して「きみ」の発話は曖昧で、その印象だけが描写されている。例えば、「きみ」の発話は、
と、あまりにも簡素だ。さらに、
と、やはり具体的な発話については触れられない。これはあくまでも作中主体は「わたし」で、その「わたし」を通して解釈された「きみ」を描写する姿勢がある。とはいえ歌集を通して「きみ」は無口な印象だし、今引いた歌では「つまんない」とさえ言っている。あくまでもこの歌集の主役は「わたし」だ。
僕がこの歌集を初めて読んだ半年前、この歌集は恋愛の歌集だと思った。しかし再読して今述べたようなことを考えた時、ただの恋愛歌集ではないと感じた。これは、限りなく純粋な、「わたし」自身の歌集である。
この歌集の中で、「きみ」は「きみ」単体では存在しないように見える。それは常に「わたし」という観測者によって描写される存在だ。もちろん彼らがこの現実世界にいたら、二人にはそれぞれ固有の人生や生活があっただろう。しかしあくまでもこの歌集における「きみ」は、「わたし」の「きみ」である。別の言い方をすれば、「わたしの人生」と「きみの人生」という集合のうち、「『わたしの人生』でないかつ『きみの人生』である」部分は存在しないことになっている。「わたし」は「わたし」の前にいる「きみ」だけを信じている。愛している。
一方でこの歌集ではさまざまなモノが「わたし」に取り込まれている。窓、犬、エスカレーター。
窓もエスカレーターも、本来は意識を持たない客体であるはずなのに、単に風景に溶け込むのではなく、動作主体としての性格を付与されている。それはもちろん「わたし」によって。「全自動わんこ」に至っては、生き物である犬を一度殺してロボットにし、さらにそれに意識を宿らせるという作業を行なっている。
彼らは「わたし」の世界に取り込まれ、「わたし」の思うままに一首の中で操作されている。窓もエスカレーターも、平穏に固定されていただけだったかもしれないのに、「わたし」によって命を吹き込まれた。
ここで面白いのは、短歌という創作物の中であるのに、それらの操作が作者ではなく作中主体である「わたし」によるものであるように見えることだ。この作為はあくまでも「わたし」のもので、やはりこの世界は、歌集は作中主体である「わたし」によって描写されている。そこでは作者の影は限りなく薄くなっており、確かに一歩引いてみれば主体=作者なのだが、歌集を読んでいるとどうもそうは思えない。「わたし」は確かに、歌集の中でひとり息をしている。作者の投影ではない。
じゃあ、「きみ」はどうだ?「きみ」は、「わたし」がいなくても生きていけるだろうか?窓は、エスカレーターは、全自動わんこは、全て「わたし」によって生かされていた。さっき述べたように一冊を通して「わたし」の視点から「きみ」を描写しているが、しかし「きみ」は「わたし」がいなくても生きていけそうである。
「わたし」の感情は、発話しない「きみ」によって喚起される。窓を、えすかを、わんこを操る「わたし」を、さらに上から操作する存在がいる。この世界において「わたし」は神様じゃない。この世界は「わたし」の恣意によって、視界によってのみ描かれていたはずなのに、その「わたし」はいつも「きみ」の手中だ。
「きみ」に徹底的に奉仕することを選んだ「わたし」は、愚かに見える。日常の様々なものに命を吹き込みつつも、自身の命は「きみ」に掌握されているのだから。
それじゃ、きみは離れていっちゃうよ。
終わっちゃう。
言葉でも、心でも、体でも、引き止められない。
「わたし」は「めが覚めて」、それは「夢の中」だったのだと言う。言わなければならないから。言うほかないから。いくら鮮明な夢を見たって、夢は忘れるのが早い。いつしか、夢を見ていたことだけが記憶に残っている。そしてそのことすら忘れてしまう。
「ぼく」は「きみ」を思い出せない。「きみ」は「ぼく」を思い出さない。詩人だと思っていたのに、詩を書いていると思っていたのに、詩の中にいると思っていたのに、すべて誤解だった。そしてそれらはこのように「わたし」の世界の記録として読者の眼前に提示されている。
すべての営みは、ある視点から見れば暴力となりうる。すべてのものに詩情を見出すこと、誰かのことを強く想うこと、愛すること、考えること、もういない「きみ」を詩として残すこと、全てを「わたし」の世界に取り込んでしまうこと。そのことに対して、作中主体の「わたし」は意識的である。全て、故意的に、それは時に暴力的に、行われている。だから「カモメ」に「こわがって」と呼びかけられるのだ。やろうと思えば「わたし」はカモメすらも詩の中で操作できたはずだ。たとえば「二月のかもめ」とでも。
しかし「わたし」はそれをしなかった。それは、愛(しあうこと)の、詩(を書くこと)の暴力性に気づいていて、わたし(たち)の行為、またはわたし(たち)自身を「こわい」と感じているからではないのか。
「カモメ」はただの一羽のカモメとして空を飛んでいる、ただそれだけだ。
「きみ」はただ一人の人間として、日々を生きているだけだ。
そのことに気づいて、飲み込んだ瞬間、ひとつの詩は終わって、また新しい詩が始まるのかもしれない。
「わたし」はまだ、「わたしたち」だろうか?