世界と身体性:萌えるのは世界というアダルトサイトにまだ広告がついていないから(青松輝『4』)【まいにち一首評No.2】

世界というものを何かに喩える時、地獄、とか、箱庭、とか、そういう空間に例えることが多いと思う。それは空間的なイメージが「世界」というものによく合致するからだ。そして、そのような作者の視点によるメタファーによって読み手の世界観は指定される。しかし今回はそれが「アダルトサイト」である。

アダルトサイト。未成年はアクセスしてはいけない。数々のポルノコンテンツが僕らの根源的な欲求を満たすために用意されている。パートナーを手に入れてセックスする必要はなくなりつつある。性欲を満たすだけなら。禁欲主義的な思想で言えば、世界で最も悪しき存在の一つかもしれない。

しかしこの歌の構造は、「世界=アダルトサイト」ということを決してマイナスに捉えておらず、むしろ「広告」に対しての批判であると読み取れる。それはつまり「世界=アダルトサイト」という等式は正しいことを前提とすることである。だから、まず「なぜ『世界=アダルトサイト』か」ということと、「なぜ『広告』に否定的なのか」を考えなければならず、その結果として「なぜ『萌える』のか」がわかるはずだ。

再び述べるが、「世界」はしばしば他の言葉で喩えられるものの、それらはたいてい空間的なイメージを前提に行われる。一方で「アダルトサイト」は空間的でない。そこに次元はない。Webサイトだから、情報でしかない。この歌において作者は、「世界」の空間性について言及していない。インターネット上でさまざまな場所=サイトにアクセスできるようになった時代において、この「世界」はもはや空間でなく、人間=僕たちがアクセスする一つの仮想の場所として、SNSなどと並列されていると考えることもできる。

ではそのような個々の場所において我々の「世界」を特徴づけることは何か。それは、この「世界」の中で我々は身体性を持つことである。我々はこの世界で肉体を持ち、五感を持ち、食事をし、セックスをする。そしていつか肉体は終わる。我々はもう二度と「始まらない」から、身体性にいつも付きまとうのは、「終わる」ことである。五感にも、食事にも、セックスにも、終わりがある。あるいは、「わたし」の死によってこの世界すらも「終わる」のだと考えることもできる。SNSに身体性はないし、「終わり」は来ない。

その点で我々の「世界」はアダルトサイトと親和性が良い。セックスは最も身体的な行為の一つであり、アダルトサイトではそれが無数にリピートされる。無数の人々の無数の裸体とセックスが記録され、それはこの「世界」と同じ構図である。世界=アダルトサイトは身体性のアーカイブとして見ることができる。アダルトサイトの中に我々は身体性を持たないが、アダルトサイトを見ながら自慰行為をすることはアダルトサイトという仮想の場所に間接的に身体性を与えることのように思える。

ただ、アダルトサイトは「終わらない」ようにも思える。しかしそれはそもそも我々の世界が「終わらない」という思想が根底にあるかもしれない。もはや「世界」はウェブサイトである……という思想が。

とにかく、身体性というキーワードで世界はアダルトサイトに喩えられた。そして、アダルトサイトにつきものの「広告」である。

アダルトサイトには広告が多い。あまりにも露骨で卑猥な広告、クリックすると危険なページに飛ばされる広告、わざと消しにくくデザインされた広告……。それらの下にあるのは、ポルノコンテンツである。広告は、ポルノを隠す。そして同時にそこには広告によって収益を得る第三者の存在が想定される。

構図だけを見れば、アダルトサイトの広告はアダルトサイトにおける我々の(間接的な)身体性を損なうものである。そしてそこにはその個々の世界を管理する第三者の介入が存在する。アダルトサイトであれば管理者であるし、SNSであれば運営会社である。彼らは「広告」という邪悪な手段で我々の欲求を邪魔する。

しかし同時にその広告によりそれら個々の世界は維持されている。我々が広告をスキップして次に進むとき、我々はその介入を受け入れるとともに、その世界が我々のものではないことを自覚する。

ここまで来て、再び「世界」について考える。「世界」において我々はアダルトサイトのような身体性を持ちながら、広告を持たない。つまり、この「世界」において我々は我々の個々の身体性の手綱を握っている状態である。僕がセックスをする時にきみは美容脱毛クリニックのテーマソングを歌わないし、翌朝に食べるトーストに予備校のキャッチフレーズはプリントされていない(ただし、身体性を妨害しない広告には溢れている。駅前のビジョン、街角のポスター、やかましい街宣車)。

「まだ」広告がついていないということは、これからつく可能性があるということだ。それはこの世界に生きる我々なら直感的に予想がつくことだと思う。恐ろしい話だ。

そして、「萌える」話に続く。広告がついたアダルトサイトには萌えないが、広告のないアダルトサイト=「世界」には萌えるのだという。「萌える」という言葉はアニメやアイドルでよく使われるから、それらを引き合いに出して考える。

アニメキャラ/アイドルに「萌える」。それは「僕-相手」だけの世界が構築されているからであり、そこに第三者=作者/プロデューサーの影が見えてしまえば嫌になってしまうかもしれない。そんなわけがないのに、僕たちは「わたし-キャラクター/アイドル」という図式を作り出し、妄想する。それはますます個人主義になっていく社会において自然な潮流のように思える。そしてこれは、アダルトサイトの広告も同じことだ。

アダルトサイトのポルノコンテンツは、「わたし」のセックスを記録していない。しかし「わたし」は自慰によって擬似的にアダルトコンテンツの中で「僕-相手」という構造を作り出せる。だから、この「世界」=「広告のないアダルトサイト」に、僕たちは「萌える」ことができる。

僕たちの世界は「まだ」身体性を失っていないだけで、それすらも奪われる時代が来るかもしれない。アダルトビデオのCMをスキップして、マッチングアプリの広告を見て、その先の身体性を求める時代。ということは、我々の身体性はすでに誰かに譲渡されつつある、ということである。


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