愛が自他をひとつにする
自他をひとつに、それも身近な存在だけでなく世の中全体まで範囲を広げてひとつと考えることが出来れば、より普遍的絶対的な見方に近づく。
それは、絶え間なく変化する自他の関係性を、確固たるものにして、自分なりに捉える事ができる。
人生の意味とは、決まったものはないが、その瞬間にどう行動するのが最も意味があるのか、行動指針になるだろう。
とは言え、自他をひとつと考えるのは自分への執着がある限り簡単なことではない。
自他を結ぶ絆として、愛がある。
愛は不思議なものである。愛し愛されることでWin-Winの関係性ができることもあるが、無償の愛も存在する。一方的に愛するということが成り立つのだ。
藤井風の詩で、
無駄にしてた“愛”という言葉
今なら本当の意味が分かるのかな
愛される為に
愛すのは悲劇
カラカラな心にお恵みを
というのがあるが、愛されるという見返りのために愛するわけでなく、ただ好き、愛するということが成り立つ。
どうしてだろうか? 考えると、それには本能的な衝動が関連していると思われる。
キングコブラのメスは卵を産むとその巣の上でトグロして、卵が生まれるまで何も食べずに卵を守るそうだ。
そして安全にこともが生まれると立ち去ってしま
う。こどもが生まれるまでは、無償の愛で卵を守っているようである。しかし生まれれば知らんぷり。メスのコブラは卵やこどもを愛しているというよりDNAに刻まれた本能に従って卵を守っているのであろう。
他の動物も人間にもそのような母性本能や父性本能がDNAに刻まれているから無償の愛が成り立っていると考えられる。
種が生き残る上で競争だけでなく、協力が必要なことを意味する。協力するためには自他をひとつにする力が必要だ。
仏教ではそのような無償の愛を慈悲といい、キリスト教では慈愛という。
慈愛、慈悲の特徴は、Give&Takeの関係を必要としないので自他を区別しない愛と言える。区別しないから執着はなく、苦に繋がることもない。
類人猿以前ではこの慈愛はあっても、見返りを得るために愛するような関係性はなかったであろう。
人間は、欲望も相まって他人や物から何かを得るための愛が生まれた。モノを愛するのもモノ提供する価値を期待し、人を愛するときは、見返りを要求する。それを仏教では渇愛と言う。渇愛は執着につながり、最後は苦につながるとされた。渇愛も他と自分をひとつにする力になるが、それだけに頼っても、上手くいかなくなることもある。モノや他は不意に無くなることもある。
その場合は不意に苦が生まれる。そうなると自分が愛している分、簡単に課題の分離が出来なくなる。
愛するという人間の本能に基づいた衝動が、自他をひとつにする力となる。