「私をきらう人は、きらえばいい」の正しさと危うさ。
たまたま見かけた、知らない人のツイート
「私を嫌う人間は、私を幸せにしてくれない。
だからどうでもいいし、どんどん嫌ってくれればいい((笑))」
こんな引用ツイートを見た。
そして、なんだかモヤっとした。
そこには「アドラー心理学サロン」というアカウントのツイートが引用されていた。
「嫌われたら、嫌わせておこう。
他人が自分を嫌うかは、他人の課題であって、自分の課題ではない。
他人がどう思うのかは、他人が決める課題なのです。」
元ツイートは、腑に落ちる。
でも、引用ツイートは腑に落ちない。
アドラー心理学の、「課題の分離」
アドラー心理学には、「課題の分離」という考え方がある。
課題の分離、については、興味のある方はググってほしい。
要は、自分がコントロールできる範囲を知りましょう、というところ。
他人が自分を嫌うかは、他人が決めることであって、自分にはどうにもできない。
人の心の中は自分には決められないから。
なので、自分にはどうしようもないことを、どうにかしようとするのはやめましょう、ということなのだと思う。
で、だ。
「嫌われる」についてざっくり考えてみる
ここで「嫌われる」っていうことについて考えてみたい。
個人的には「嫌われる」っていくつか種類がある気がする。
・自分の持つ、根本的な特性で嫌われる。
例えばせっかちな人が、のんびりな人を嫌い、とか。
・考え方が、思いやりが無くて嫌われる。
・本領を発揮できなくて嫌われる。
緊張しておどおどしたり、体調が悪かったり。
他にもたくさんあるだろう。
特性や、本領発揮できず嫌われたら、仕方がない。
でも、考え方が思いやりが無くて、嫌われてるんだったら?
開き直って、そのくせ自分にラベルを貼っちゃうあるある
もしそうして嫌われているなら、
嫌われていいと開き直り→改善しない→人が定着しない
っていう流れが出来上がって、どんどん一人になる。
そこでさらにこじれて、
「自分は嫌われ者だ」とラベルを貼ってしまったり。
いやいや、特性が「嫌われ者」というのは、ない。
持ってる特性じゃなくて、考え方、だと思う。
嫌われた。
それはしょうがない。どうしようもない。
だけど、うまくいかない人間関係が続くのなら。
自分が変わる時なのかもしれない。
おわりに
今日はここまで^^
次回かは分からないけど、「私を幸せにしてくれる人」という思考回路について、書けたらなあーとぼんやり思っております^^
結論から言えば、「私を幸せにしてくれる人」に対しては、
そんなの、存在しない。と思う。
「周りにいる人間は、アンタの幸せ供給機かい!」とツッコみたくなった
^^;
幸せを増やす方法、とかも自分なりに書きたい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました^^
では、また^^