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無人島読書 vol.5 ~森と氷河と鯨 -ワタリガラスの伝説を求めて- ~

この本を手にしたのは、2年ほど前か。
久留米の美術館にて催されていた、「没後20年 特別展 星野道夫の旅」へ訪れた際に購入したものだ。

以前から、星野道夫氏のことは知っていたものの、著書や写真を手にする機会はなかなかなかった。
が、当時お付き合いしていた女性に誘われて、ようやくの出会いを果たせたのだ。

…それはもう、素晴らしく、美しい写真ばかりだった。
そのなかでも特に印象に残っているのが、クジラの骨の墓(遺跡)の写真だ。

たった一枚の写真が多くのことを伝えてくれる。
アラスカとロシアに挟まれたベーリング海峡、そこに住むクジラ漁を営む人々の自然や生き物と共にある暮らしや、近代化に伴い人の手が遠ざかっていったことが分かる墓の様子。
年月とともに少しずつ朽ちていく大きなクジラの骨、よくみると真っ白な骨に、苔やカビのようなものが付いているのもわかる。
真っ白なクジラの骨の突き刺さった大地に、青いベーリング海、夕日のさした空、そこに浮かぶ半月。

息を呑むような美しさだった。
人と動物と自然と、そこに流れてきた時間と、そしてそれを心から愛する星野道夫氏の眼と、その全てが感じられる一枚だった。
もちろん、彼の写真をすべて知っているわけではないが、そんなことは関係ない。少なくともぼくにとっては、間違いなく最高の一枚に感じられた。

さっそく売店でその写真のポストカードを探したが見つからない。
写真の選定をしたのはどこのどいつだと毒づきながら、本のコーナーへと目を移してやっと見つけた。
構図は多少異なるが、同じタイミングに撮られた写真だろう、よく似た写真がとある本の表紙に使われている。
もちろん、即決で購入した。本の題名も確認せずに。
それがこの本「森と氷河と鯨」との出会いだ。

星野道夫氏は写真家であり小説家だ。
彼はアラスカの自然と動物、人々の暮らしに魅せられて、アラスカに居を構え暮らしていた。
シロクマやカリブーの群れといった野生動物の写真のほうが、一般的には知られている彼の作品だろうか。
そしてこの本は、彼の晩年に書かれた本だ。いや、書き上げる予定だった本、と言ったほうが良いかもしれない。

星野氏はアラスカでの暮らしのなかで、先住民の間で語られるワタリガラスの神話に魅せられていき、この本の執筆に取り掛かっていく。
物語の冒頭、星野氏はボブ・サムという一人のインディアンの若者に出会い、時折、彼を共にしながら、ワタリガラスの神話を辿ってアラスカを旅する。
そしてやがて、アラスカとロシアに挟まれたベーリング海峡を渡り、ロシアへと移動。さらにカムチャッカ半島へと足を伸ばしたのちに、再びアラスカへと戻り、最後の章を書き上げる予定だった。

…そう、彼はアラスカに帰ることはなく、カムチャッカ半島のクリル湖畔でグリズリーに食い殺され、43歳でこの世を去ってしまった。

その急死の原因は様々に憶測された。
人気テレビ番組「どうぶつ奇想天外!」の撮影クルーや現地ガイドと共にカムチャッカ半島へと入った星野氏は、他のメンバーの反対を押し切り、安全なキャビンではなくクリル湖畔にテントを張って一人で寝ていたらしい。
サケの遡上する時期でエサが豊富にあるため、グリズリーの危険性は無いとの判断だったそうだ。しかし、そこにいたのは現地ガイドにより餌付けされれ、人間の食べ物を好むようになったグリズリーだった。
食糧庫に数回のグリズリーの襲撃があった後も、最後まで星野氏は他メンバーによる説得に応じずにテント泊を続け、そして夜中にグリズリーの襲撃を受けて生命を落としてしまった。

現地ガイド、撮影クルー、近くに滞在していた他の冒険家と、証言が異なっている部分も多少あるらしいが、概ねはこのような流れだったのだろう。
いずれにせよ、星野氏は人間社会を離れ、グリズリーの一部となり、向こう側へと行ってしまった。

星野氏の死亡が確認された後に、彼を襲ったグリズリーは射殺されてしまったらしい。
どのように処分されたのかはわからないが、願わくば、そのグリズリーの遺体が人の手で処分されることなく、森の中でゆっくりと朽ちていき、自然へととけていったようにとぼくは思いたい。

本を開いて一番最初、目次よりも先に英文の書かれたページがある。
題は " How spirit came to all things."

星野氏急逝の1週間後、アラスカのシトカで彼の追悼会が催された。
その場にて星野氏に捧げられたワタリガラスの神話が、この " How spirit came to all things." だ。
神話を捧げたのはボブ・サム。星野道夫のワタリガラスの神話を辿る旅にも深い関わりを持っていた、インディアンの若きストーリーテラーだ。

じつは無人島で本を読み直すまではこの英文の存在に気づいてなかったのだが、この英文に気づき、さらに星野氏の追悼会にてボブ・サムによって捧げられた神話と知り、思わず震えてしまった。

なぜなら、じつはこの神話は、作中にも日本語訳で登場している。
そして、ぼくがこの本でもっとも心をうたれ、考えさせられ、憧れを抱いたのがまさにその神話だったからだ。

少し長くなってしまうが、作中に記載されている日本語訳の方を紹介したい。

今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。だから、しっかりと聞くのだ……。
たましいのことを語るのを決してためらってはならない。ずっと昔の話だ。どのようにわたしたちがたましいを得たか……。
ワタリガラスがこの世界に森をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。人々は森の中に座り、どうしていいのかわからなかった。木は生長せず、動物たちも魚たちもじっと動くことはなかったのだ……。
ワタリガラスが浜辺を歩いていると海の中から大きな火の玉が上がってきた。ワタリガラスはじっと見つめていた。すると一人の若者が浜辺の向こうからやって来た。彼の嘴は素晴らしく長く、それは一羽のタカだった。タカは実に速く飛ぶ。
「力を貸してくれ」
通り過ぎてゆくタカにワタリガラスは聞いた。あの火の玉が消えぬうちにその炎を手に入れなければならなかった。
「力を貸してくれ」
三度目にワタリガラスが聞いた時、タカはやっと振り向いた。
「何をしたらいいの」
「あの炎を取ってきて欲しいのだ」
「どうやって?」
ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくると、それをタカの自慢の嘴に結びつけた。
「あの火の玉に近づいたなら、頭を傾けて、枝の先を炎の中に突っ込むのだ」
若者は地上を離れ、ワタリガラスに言われた通りに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続けた。炎が嘴を焼き、すでに顔まで迫っていて、若者はその熱さに泣き叫んでいたのだ。ワタリガラスは言った。
「人々のために苦しむのだ。この世を救うために炎を持ち帰るのだ」
やがて若者の顔は炎に包まれ始めたが、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れた。その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動きだし、森の木々も伸びていった……。
それがわたしがおまえたちに残したい物語だ。木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを見つめている。そのことを忘れるな……。これから時代が大きく変わってゆくだろう。だが、森だけは守ってゆかなければならない。森はわたしたちにあらゆることを教えてくれるからだ……。わたしがこの世を去る日がもうすぐやって来る、だからしっかりと聞いておくのだ。これはわたしたちにとってとても大切な物語なのだから……
 星野道夫著; 森と氷河と鯨 -ワタリガラスの伝説を求めて-  p.134~136

そして、星野道夫氏はこの神話の後にこう続けている。

ぼくは、ワタリガラスによって火の玉を取りにゆかされ、ひどい火傷を負いながらも、その炎をもち帰って生き物たちにたましいを与えた若者のタカを、ふとボブ・サムと重ね合わせていた。そしてこの世は、ワタリガラスによってその炎を取りにゆかされた無数の人々で満ちているのかもしれない。

ボブ・サム氏がどのような意図で、この神話を星野氏の追悼会で彼に捧げたのか、その真意はぼくにはわからない。

しかし、かつて星野道夫氏がボブ・サム氏の姿に真っ赤に燃えるタカを重ね合わせたように、ボブ・サム氏もグリズリーに食われ向こう側へと逝ってしまった星野氏の姿から、真っ赤に燃えるタカの姿を感じ取ったのではないだろうか。

この世は、ワタリガラスによって炎を取りにゆかされた無数の人々で満ちているのかもしれない。
そう、きっとそうだ。
少なくともぼくにとっては、星野氏もその真っ赤なタカの一人に思える。

そして同時に、今までにぼくが出会ってきた、お世話になってきた方々のことも思い出す。
損得や報酬、見返りを超えたところで、他人から見れば不器用であったり、陰口を言われるような立場であったり、そんななかで戦い続ける、生命を火にくべながら戦い続ける方々の姿を。
顔を焼きながらもたましいの炎を運び続けた、あの真っ赤なタカのように。

憧れ、の一言で語ってしまうのは良くないだろう。
しかし、それ以外の言葉がない。

ぼくには、とくになりたい職業などはない。料理人とか、社長だとか、別になんだっていい。
だけれども、そんなぼくにもひとつだけ目標ができた。
ぼくも真っ赤なタカの一人となりたい。そして、そうあり続けたい。

過ぎた願いだと笑われるだろうか。ピーターパン野郎だと呆れられるだろうか。
しかし、ぼくにとって真っ赤なタカは、決して世界を救う救世主だとかそういった存在ではない。強いて言うなら、戦い続ける人たちだ。
世の中がいかに汚れて不条理に見えようとも、それでもなおと、自らの希望と信念と誇りを持って戦い続ける人たちだ。
大統領だろうと社長だろうと料理人だろうと社員だろうと芸術家だろうとニートだろうと、関係ない。

いままで、「それで結局、お前は何になりたいんだ」と聞かれ続けてきた。
これまではぐらかせてきてばかりだったが、ようやっと、この本に出会えたことでぼくは明確な目標を得ることができた気がする。

次に聞かれたら言おう。
きっとポカンとされて、なに言ってんだって顔されるんだろうけど。

ぼくも、この世に満ちている真っ赤なタカの一人となりたい。

今、ぼくはそう強く思っている。

ひとつ、星野道夫氏の逸話を紹介したい。
先に述べた通りに彼は優れた写真家でもあり、動物写真も数多く撮っていた。

ある時の彼は、アラスカの大地を大群で移動するカリブーを撮影するために、一ヶ月近くもアラスカの大地に一人で、いつくるかわからないカリブーの群れを待っていた。

そしてやがて、カリブーの大群が星野氏の待ち構える場所へやってくる。
待ちに待った瞬間だ。
星野氏はカリブーの群れにカメラを向け、シャッターを切り続ける。

ゆっくりと星野氏の近くへと迫ってくるカリブーの群れ。
ファインダーを覗き、ベストショットを探る星野氏。

が、しかし。
もっともカリブーが近づいてきて、星野氏がその群れに飲み込まれる瞬間。
ベストショットの最大のチャンスが訪れた、その瞬間。
彼は構えていたカメラを静かにおろし、立ち尽くしたままでその群れを迎えいれた。

写真家としては間違った行動だったのかもしれない。
しかし、ぼくはその行動に星野氏の生き様を見せつけられた気がした。

真意はわからない。これはぼくの勝手な推測だ。
星野氏は写真家としての功績やモノとして残る写真よりも、広大なアラスカの大地に一人たたずんでカリブーの大群へと飲み込まれていく自分を、すぐそばを通り過ぎていくカリブーの一頭一頭を、全身全霊をもって感じたかったのではないだろうか。
きっとその瞬間。アラスカの大地は、風は、カリブーたちは、星野氏になにかを語りかけていたはずだ。彼はその声を聞き取ろうとすることに、自分の全力を傾けたかったのではないだろうか。

星野道夫氏は、自分の人生をもってして真っ赤なタカとなり、そのことをぼくに教えてくれた。たましいの炎を運んでくれたんだ。

この「森と氷河と鯨」という本は、そんな、ぼくにとってとても大切な一冊だ。

ぜひ興味があれば、読んでみていただきたいです。

i hope our life is worth living.


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Keiji Matsubara "Restaurant Izanami Tokyo" Chef
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