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No.2「『学生の遊び>授業』という公式の証明」


今学ぶべきことは学科の専門性ではなく「遊び」だと常々思う。
1人ではなく、友達との遊びを。
同性だけでなく異性とも。

なぜか。
将来的にはコミュニケーション能力みたいな漠然としたものが求められる。
それを友達との遊びで身につける。

成人の友達との遊びって案外難しい。
考えもせず地域の公園で遊んでいたあの頃とは違う。

高校生までは幼馴染とか小中学の友達とかこれまで付き合っていたコミュニティの延長だから困らない。
それが大学に入って、枠から突然外される。
たまったもんじゃない。

第一印象って大事だ。
大学にはたくさん人がいる(つまり比較対象が多い)から、小汚い奴より小綺麗な奴の方が声をかけられやすい。ダサい奴よりオシャレな奴の方が友達が多い。(私の友達はオシャレなやつで、やはり友達は多いしコミュニケーションの取り方も上手い。)

おしゃれでないなら他の武器がいる。
面白そうとか、初めて話して楽しいとか。

コミュニティは同性や数にこだわらず多様でいい。
むしろ多様がいい。
偏らずたくさんの遊びを知れる。
いろんな出来事はあればあるほどにネタになる。

で、誘いは基本的に乗って行く。
YESマンでいる。
これまた比較対象が多いからNOとよく断る奴よりよくYESという奴のほうがスムーズに事が運ぶ。
すると思いがけないことに遭遇したりもする。
もちろん譲れないものにはNOといえる一貫性も必要だが。

そうやってたくさんのコミュニティを形成し、たくさんの遊びを知ると、色々な人との関わり方や線の引き方、グループ内での立ち振る舞いとか学べる。(先輩とのグラスの乾杯の仕方みたいな些細なことから、自分の価値観は人にとってどのように見えているのかみたいなイデオロギー的なことまで。)

そうすると、なんだか人生が楽になる。
課題に困ったときには得意なやつに聞けばいいし、
逆に助けると自分に評価がつく。
相談に乗れば信頼がついて情報も入りやすくなる。
相談すれば心は簡単に楽になったりもする。
新しいコミュニティに参加するときも
これまでを活かして上手く立ち回れる。

楽に活きるのが正しいと思っているわけじゃない。
もちろん努力も必要だと思ってる。
でもそれは高校までにしてきた。
だから大学では楽するやり方を学んでいる。

努力する方法と楽する方法。
人生は選択肢がある方が生きやすい。

そんなわけで友達が多いってのは
そこに辿り着くまでの過程で得る能力があるってわけで、それは将来に活きてくる。

ヒトを利他的な生物として、すなわち次世代に種を存続する命をもつ生き物としてみても(パートナーを探したりする点など)必要な能力ばかりだ。

大人は遊んでばかりじゃいけないと言うけれど
遊ぶ事が必要だから遊ぶための持て余された時間が大学生に設けられてると解釈してみる。

勝手な解釈というのは重々承知だし友達自慢をしたかっただけかと思われればそれで終わる。


でも、何にでも意味をつけたがるヒトに便乗し、遊んでばかりの毎日にもそれを見出すならば
ここまで綴った日本語が表しているのであろう。

授業より遊びに時間と金を使うのだ。

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