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長編小説「仕合せの残り香」④
(③までのあらすじ)
会話がぎこちない妻へのお見舞いは、いつものように終わった。しかし、薫の生活はいびつにゆがみ始めていた。再び、文章を綴り、司法試験の合格発表の日のころに思いを馳せた。親友の岩田の合格の裏腹に、薫は試験を落ちて、挫折感に打ちひしがれていた。
僕の手元は、小刻みに震えていた。何を言えばいいのか。どのように取り繕えばいいのか。そんなことに考えを巡らせても、何も答えが出てこない。それもそうだろう。だって、取り繕えないほどに明確に、結果が出てしまったのだから。あの日の不合格通知から、もう二週間が過ぎようとしていた。
「どうしたの?」
「あっ、母さん?」
「何よ。あんたから、電話がかかってくるなんて珍しい」
僕は、これ以上何も言葉にすることができなかった。
「もう一回、受けたらええやない?」
母は、もう気がついていた。
「でも、お金もかかるかしれんし」
「それは、困るね。でも、大学の成績はええんやろ?奨学金とか出るんやないの?それに、貧しいかもしれんけど、生活はできんわけやないやろ?」
「次、受かるかもわからんし」
「ええの。それでも。ええの」
僕は、涙が込み上げてきた。何も話すことができなかった。電話口で、わざと声色を明るく、励ます母の匂いが香ってきた気がした。必死に、母の人生の分まで、”復讐”しようとしていたのに、自分の未熟さに失望する。自分が掲げていた「正義」は、自分中心の「エゴ」でしかなかったんだ。
電話が切れた――。
部屋の中に、急に静寂が訪れた。
時計の秒針がカチカチと響き渡る。その音が、僕をせかして、何かに駆り立てるように。
しかし、それとは反対に、机に向かて座っている僕の姿勢が、だんだんと崩れて、目の前にある窓からの景色を、目的はなく眺めていた。
ああ、こんな日でも、空は青いんだ。僕の悲しみを癒す間もなく、この世界は輝いているんだ。それが、少しだけ、ほんの少しだけ、この世界から拒絶されているような気がした。
おもむろにお腹が鳴って、冷蔵庫を確認する。そこには、食材は何もなかった。冷却モーター音が、低く響く。
いつもなら外にめんどくさくなって、ベッドに横になって、日が暮れたころになって、やっと近くの「王将」に出向くのがほとんどだけど、今日はこの部屋にとどまることができなかった。
部屋が出ても、日はまだ頭上に輝いていて、まだまだ一日が残っている。僕の足は、何かに導かれるように、駅の方に向かっていた。どこに行く当てもないのに、小田急線の経堂から新宿に向かうホームに佇んでいた。
【新宿方面のホームに急行列車が通過します。危険ですので、黄色い点字ブロックまでお下がりください】
駅のアナウンスが鳴った。そして、僕の肩に誰かがぶつかった。
その瞬間に、時が止まった気がした。
肩をぶつけたのは、男。しかも、年齢は50くらいか。ボロボロの作業着を身に纏った男だ。髭も、髪の毛も全く手入れなんかされていない。当たった肩を軸に、男の体が反転して、顔の正面がこっちに向いた。
「あの男だ」
僕の心の中に、その言葉が浮かんだ。小さいころ、ふてぶてしく親父の死を笑った、あの男だ。瞬間湯沸かし器のように、怒りがこみあげてくる。
「なんで、こんなところにいるんだ。しかも、平然とこの世に生きているんだ」
許せなかった――。その時、僕の心は、こう叫んでいたんだ。
「死ね」と……
一瞬だった。
その男の足は、止まることなく、ホームへと突っ込んでいった。
フォーンーーという汽笛の音が、遅れてくるくるくらいに一瞬に、その命は亡くなった。
鮮血が飛び散って、ホームには女性の金切り声が響いた。僕は、茫然と、そこに佇むしかなかった。
後から知った。彼は、もともと知的障害を抱えていたということを。そして、父がそれに耐えかねて、何度も何度も執拗に𠮟責していたということを。僕が知らない事実が、突然、目の前に並び始めたんだ。
「正義」だと思っていた。僕らは、被害者だと思っていた。でも、彼にとっては、僕らを恐ろしい化け物のように感じていたのかもしれない。逃れたくて、必死に生きていただけなのかもしれない。
僕を見た彼の顔に投影された表情は、「恐怖」。彼は、そこから逃げたかった。僕の心に浮かんだ「殺意」が、僕の「罪悪感」へと変わるのは、そう時間はかからなかった。
あの出来事は、誰にも話すことができなかった。いや、話してしまって、誰かに「でもさ、父さんを殺した犯人が死んだんだもん。それは、すっきりするじゃん?」「少し、気持ちが悪いかもしれないけどさ、悪人は、しっかり報いが来るんだよな」とか、安直な答えをぶつけられるような気がして、それがとても嫌だった。
最初は、学校にも行っていた。いつものように。不合格通知を受けた、あの青空のように、いつものように輝く太陽のように、僕は学校に通った。
それでも、いつものようにはいかないんだ。
僕の心は荒んでいるし、突然のフラッシュバックに、トイレに駆け込むことも珍しくなかった。それに、自分の父を殺した相手が原因で、僕がこんなにも被害を受けなきゃいけないのか――この状況にも、異常なまでの憤怒の思いが、また体を壊す。
刑法の授業で、殺人や窃盗・・・法律上の「悪」を並べられても、なぜか憎めなくなる。単純に、機械的に、人間の罪を断罪してしまっていいのか。そんなことが脳裏から離れない。あの日に憧れた「正義」は、輝きを失って、離れていきそうだった。
そして、僕は、一度も休んだことのない安藤ゼミを欠席した。
「待ってたよ。佐藤君。研究室に、呼び出してしまって、すまないね。珍しく君がゼミを休んだからね、少し心配になって。ほら、司法試験のこともあったから」
そう話しかけてきたのは、安藤教授。物腰は柔らかいが、皺のように細い目は時には、厳しい目つきに変わる。私が3年生の時から所属している、法哲学ゼミの担当教授である。
「いえ、私もいろいろあったので。なんというか、報告が遅れてしまって」
「そんなに気を落とすことはないよ。予備試験を突破できるだけでも、本当はすごいことなんだよ。それを受けたくないから、法科大学院制度もできているわけだしね」
「そういわれると幾分か、心が救われる気がします。」
「まあ、とりあえず、座りなさい。君は、コーヒーは飲めるたちかい?」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
白く擦れた革のソファーに、私は腰を掛けた。研究室の書棚には、法学の専門書がずらっと並んでいる。西日で埃がぼんやりと輝いていて、ぼんやりと書棚に目をやっていた。「そんなに珍しい本はないんだけどね」と微笑みながら、コーヒーの入ったマグカップを渡してくれた。
「私は、遠回りすること自体は悪いことだと思わないんだよ。その結果、最短ルートで進む人には見えない景色が見えることもある」
「そうでしょうか。どうしても、効率よく、人生を進んでいる人を、私は羨んでしまいますね」
「司法試験を学部生のうちに合格する人は、本当に少ないよ。予備試験を突破できている時点で、他の人から見れば、最短ルートを進んでいる人じゃないか。人生は、まだ長い。そんなに焦る必要はないよ。本当なら、僕は君に大学院の進学を進めておきたいくらいだしね」
「大学院ですか……。それは考えていなかったです。」
「じゃあ、法哲学的な質問を投げかけたいが、純粋法学について、君はどのように考えている?」
「純粋法学ですか。ハンス・ゲンゼンとかのでしょうか。」
「そうだ。端的に言うと、実定法のみを法律として扱い、まるで数式のように罪刑を導き出す考え方だね」
「今の私には、その考え方は非常に合理性があるような気がします。人工知能の発達で、どんどんと人間の量刑についても機械が判決するべきだという議論は出てきていますし。軽犯罪をはじめ、どんどんと機械が判定していく流れは止められないと思います」
僕は、これまで何度も悩んだことを打ち消すかのように、そう答えた。安藤教授は、僕の薄っぺらい言葉を受け取って、熟慮しながら、
「君は、そう考えるんだね。私はね、そうとは思わないんだよ。法律には、『心』が宿らないと意味はないと考えている」と答えた。
「『心』ですか……」
「そうだ。心だ。法律の解釈は、時代によって変わるし、極端に言えば、事件の一つ一つによって変わる。そのケースによって、何が正義なのかを考える際に、人間の心に向き合わないといけないことが起きうると思うんだよ」
「確かに、そうかもしれませんが、そんな能力が必要とされる場面は数少ないでしょう。ほとんどの法律家が直面する事件のほとんどが、『心』に向き合うものではない気がします。それよりも、人の『利益』に向き合うほうが重要な気がします」
「だからこそ、心が大事なんだよ。実用的な考え方は否定するつもりはないよ。ただね、なにが正義かを決めるかどうかは、心の在り方にかかわってくると思う。例えば、戦後のアイヒマンの裁判は、知っているかい?」
「なんとなくは、知っていますが。あのユダヤ人大虐殺を実行した人ですよね」
「600万人のユダヤ人が虐殺された、あのホロコーストだね。彼は、ユダヤ人のアウシュビッツの移送について責任を持っていた。彼の判断で非常に多くの人の命が奪われたのは間違いないし、それは裁かれるべきだ。しかしね、そのプロセスにはさまざまな議論がある」
「不遡及の原則が、守られていなかった、ということですよね。」
「そうだね、その原則が守られなかった。ハンナ・アレントなんかが、激しく議論しているが、アイヒマンを裁く根拠は、こうした実定法に置かなかった。問題を丁寧に切り分け、何が人類にとって罪だったのか、を探求していくことになる。彼女は、同胞への無関心の問題点を指摘しているし、残虐なことが行われていても、心が死んでいく、その全体主義の危険性について警鐘を鳴らしているように思える。今後、社会は、どんどん多様な社会へと進んでいく。利害を追い求めていくだけでは、さらなる混乱が生まれていくことになるのは、本当に目に見えているだろう。その中に、必要なのは、その中で人が何を求めるかではなく、人がどうあるべきなのかだと思うんだ。
こ難しい話になったが、単なる同情で、罪を犯す人間に肩入れすることも違う。しかし、まるで機械のように、法律の順守を『正義』とするのも、少し浅はかだ。これからの法律家は、法令の専門家だけではなく、『人』そのものをもっと深く知らないといけないんじゃないかね」
安藤教授のまなざしが、私の心を鋭く、深く刺さった気がする。
「すまないね。脈絡もなく色々話してしまった。ただ、私がね、伝えたいのは、君は、きっと『心』が分かる。そして、そのための勉強が必要だと思う。回り道は、意外に近道かもしれない。君の成績なら、今からでも十分にうちの大学院には合格するし、学費免除だって狙える。私のほうから、推薦だってできる。それを伝えたくて」
私は、すぐに言葉を発することができなかった。
「心」
ここでつかまなければ、何か大切なものを手放すことになるような気がしてならなかった。
「少し、考えさせてください」
安藤教授は、頷き、優しく微笑んでいた。