長編小説「仕合せの残り香」②
(①までのあらすじ)
余命宣告を受けた妻の横で、主人公・佐藤薫は、二人の人生を決して消えないように書き記しておこうと文章を綴っていた。
まず、思い出されたのは、妻との出会いの時。大学三年の夏に、司法試験に落ちて、気がめいっている僕は、妻との運命的な出会いを果たした。そして、二人は、喫茶店でお茶をすることになる。
(二)
天井がやけに高くて、木組みが温かさを演出している。目線を移動させた先には、必ずと言っていもいいほど、観葉植物が置かれている。
これが、「おしゃれ」っていうやつなんだろうな。自分とは決して着ることはないような服装に身を包んでいる人たちの楽しそうな声が飛び交っていた。
「どうしました?具合でも悪いんですか?」
朝倉さんは、僕に気を遣うようにそう言った。
「うん、大丈夫。少し、こういうところ慣れなくて。」
「もしかして、嫌でした?私、なんか、強引に誘ってしまいましたよね……。無理に合わせなくても……」
「いや、そんなことは絶対にない。」
食い気味に、僕は彼女の言葉を遮った。
「そもそも誘ったというか、声をかけたのは、僕のほうというか。しかも、気持ち悪い誘い方でしたよね。」
「いや、そんなことはなくて、全然。あっ、普段、ナンパ慣れしているとか、こうチャラついてるとか、そんなんじゃなくて。なんか、ちょっと、うーん」
朝倉さんは、言葉にまで固まっていない感情を口にしようとしていた。
「不思議と、この機会を逃してはいけないような……そんな気がしたんですよね。ハイヤーセルフとかっていうじゃないですか。そんな感じかもしれないです。」
聞きなれない言葉が出てきて、表情を曇らせた僕に気がついて、彼女は、何かを取りつくように言葉を並べた。
「えっと、なんというか、オカルトじみたことを信じているというわけじゃなくて。ごめんなさい。なんか、私、変ですよね。」
「そんなことはないです。」
僕と彼女の間には、しばらく沈黙が流れていた。
何か、代わりになる話題は、ないだろうか・・・
流行りの音楽について話すか?
いや、ほとんど音楽の知識を持ち合わせていない。
ドラマや演劇の話はどうだ?最後に見たドラマは、4年前のやつだぞ。そもそも、うちにはテレビもない。何も知らないのがばれてしまう。
僕の興味がある法律や哲学の話をしても場を凍らせてしまうのがオチだ。
「僕は、アイスコーヒーを頼もうかと……」
彼女は、赤面した顔をこちらに向けて、「あっ。はい」とだけ。
「朝倉さんは、何にしますか?」
「じゃあ、アイスティーで。」
僕は店員を呼んでいる最中に、メニューに再び目を向けていると、そこに書かれている値段を見た驚愕した。アイスコーヒーが、800円・・・。なんで、こんなにも高いんだ。学食のA定食と同じ値段だぞ。声にならない子を振り絞って、伝票を抱えて待っている店員に注文を伝えた。
はあ、これで、何日か節約生活か・・・と考えていると、意識から彼女のことが全く外れてしまっていた。
「ごめん。ちょっと考え事していて。」
「いや、話しにくいですか。」
「そんなことはないんだけど、こういうところ初めてだし。女性とほとんど、話したこともないというか。大学に入って、法律の勉強ばかりに目を向けていたから、なんというか、慣れてなくて。」
彼女は、僕が思ったよりも真剣に話に耳を傾けてくれようとしていた。そのことに、呆気に取られて、言葉を詰まらせてしまった。
「どうしたんですか?」
「いや、何でも。」
「そうですか……。でも、なんで、法律なんですか?」
「えっ…なんでって。そうだな……」
僕の家は、とても貧しかった。いや、正確に言えば、貧しくなったんだ。
「まあ、なんとなくというか」
父が経営していた会社が苦境に立たされた時に、リストラして従業員の整理を行った。その時に雇っていた一人が、恨んで、父を殺した。いまでも覚えている。夜、眠気眼で、明かりがついている工場に降りていくと、父が血まみれで倒れていたことを。
「法律を学んでいたら、つぶしが利くでしょ?将来、強いというか……」
犯人の従業員はすぐに捕まったものの、精神錯乱状態。現場の状況も、事故に見えなくもない状況で、犯人への追及が甘くなっていた。一審は、執行猶予付きの判決で、僕たちは、失意の底に叩き落とされた。退廷するときの彼の顔は、口角を上げて、僕をあざ笑うような表情を浮かべていた。
「だって、そうじゃない?企業法務とかやっていたら、丸の内とかで、働けたりするし、かっこいいじゃん。」
その時にであったのが、二審を担当してくれた望月検事だった。一から捜査状況を洗い直して、犯人が計画的に犯行に及んだことを明らかにしてくれた。その時、この世の中には、「正義」と言うものがあるんだ。そう思ったんだ。法廷で見た、望月検事の後ろ姿を見て、僕は、誰かを守ることのできる法律家になろうと、強く願ったんだ。そのことは、胸の中に一番取り出しやすいところにしまった記憶。
朝倉さんは、僕の薄っぺらい言葉をまるで受け取らず、不思議と、じっと僕の目を見ていた。
「私の勝手な思い込みなんですけど、佐藤君って、そんな適当な理由で人生を決めたりしないと思ったんだけど……。」
再び、場が凍り付いた。
「あっ、ごめんなさい。私、また変なこと言ったよね。なんでだろ。私、普段は、こんなこと言わないのに。なんか、今日はおかしいな。」
「誰かを守れるようになりたい。」
「えっ?」
「いや、誰かを守れて、泣き寝入りしなくちゃいけないような状況の人たちを助けたいんだ。正義っていうものが、この世界にもあるんだって、たぶん、自分が思いたいんだと思う。」
なんでだろ。かっこ悪い。初めて会った人に、青臭い理想論をぶつけて、かっこ悪い。
「カッコいい。かっこいいよ、佐藤君。私、そんなこと、思ったこともなかったもん。私なんか、小説が好きだから、出版会社の文芸担当になりたいなとか、そんなことしか考えてないし。まだ自分の将来についても、全然でさ。」
いつの間にか運ばれてきていたアイスコーヒーを口に含んで、彼女の話を聞いていた。
「でもね、佐藤君。あなたの言っている言葉には、力があると思うの。」
「力がある?どいうこと?」
「私たち、今日初めてあったじゃない?でも、佐藤君の言っていることに、感動するというか、心がじんわりとするというか、ん-。とにかく、力があるって思うんだ。こう理想が、現実になりそうというか……」
僕の生い立ちは、何も口にしていない。でも、彼女には、そのすべてが見透かされているような、不思議なたたずまいを感じていた。自分が救われた一瞬の理想が、年齢を重ねれば重ねるほど、手から零れ落ちて、消えてなくなるそうになる――そんな感覚に陥っていたのことに、今更ながらに気がついていた。
朝倉さんは、『アンナ・カレーニナ』のアンナに見えた気がした。自分の心に正直で、奔走するアンナを、僕はどうしても嫌いになれなかった。
いや、それだと、僕らの行く先は、不倫か?僕の性格的には、実直なリョーヴィンなはずなんだが……。そんなことに考えを巡らせていると、彼女の言葉をこぼれ落としてしまっていた。
うわの空にも見える僕の様子に気がついてか、朝倉さんは、微笑んで、
「人に偉そうに語れるほどじゃないんだけどね。私の頭は、本当にザルッとしてるからさ。法学部の皆さんみたいに、頭は緻密じゃないしね。」と言った。
なんの話かも分からないままに、僕は、「そんなことないよ」と生ぬるい返事だけを、彼女の目の前に置いた。
僕らは、導かれるように出会った二人。この関係がいつまでも輝いて、人生の希望となればいいのにと、柄にもなくロマンティックな感情が湧きあがっている。それは、決して彼女には悟られまいと、他愛もない会話に集中した。
「あのー、そろそろ閉店の時間なんですが。」
カフェ店員が申し訳なさそうに、声をかけてきた。あたりを見渡せば、残っているのは私たち二人だった。道路に面した大きなガラス窓から望む外はすっかり日が沈んでいて、街灯がちらちらと輝いていた。
「もう八時。すみません。出ます。」
「ご協力、ありがとうございます。」
彼女との話で時間が、異常に進んでいたことに気が付かなかった。私たちを見送ると、店員は滞っていたであろう閉店作業を始めて、店の電灯も静かに消えた。
「すっかり、暗くなってしまいましたね。」
「こんなに、話に夢中になったのはいつぶりかなぁ。なんか、佐藤さんとは、初めて会った気がしません。」
「それは、よかった。僕も試験勉強三昧なので、話せて本当に楽しかった。」
「決死のナンパのおかげですね。」
「いや、ナンパじゃなくて……。あれは、動揺の末、起きた事故です。」
「そんなことを言うと、女性は傷つきますよ。そこは、ナンパでいいじゃないですか。」
数歩前を歩く彼女は、やはり私の心を見透かしている。帝都大前駅への道すがら、特に大した会話もすることなく、二人は静かに歩いた。こんな出来事、岩田にバレたらからかわれるに違いない。尾ひれがついて、まるでどこにでもあるような「恋」のように語られるのは、許せなかった。僕ら二人の心にさえ刻まれれば、それでいい。彼女とのひと時を胸にそっと秘めておこうと固く決意した。
二人が一歩を踏み出すたびに、固かった空気がだんだんと馴染んで柔らかくなっていく。そして、二人の時間が夜の静寂にまぎれていく様に、少し心が躍った。
③へと続く