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長編小説「仕合せの残り香」①

 妻が病床に伏している傍らで、この文章を書いている。誕生日に君が贈ってくれた万年筆でゆっくりと時を刻むかのように、筆を走らせている。昨晩、主治医の木村先生は、「もしかしたら、奥さんは1,2年くらいの命かもしれません」と、私に話した。
 その宣告を受けてから、私は一睡もできていない。何も知らず眠りについている妻の運命を、代わりに私が受け止めている。いつもそうだ。苦しむのは妻で、私はそれを見つめていることしかできない。それしかできないのに、私はいつも逃げてきた。にもかかわらず、まるで自分が十字架を背負っているように感じて、「どうか、この現実から逃げたい」と心で念じてきた。私は、弱い人間なのだ。
 自責の念で身が壊れていきそうな、この静寂の時間の中で、今度こそ、私は妻に正面から向き合わなければならないと思う。しかし、それを決意したところで、私が君のために出来ることは本当に限られている。ただ、これが自己満足だったとしても、君との人生の物語を記しておきたい、そう思ったのだ。おそらく、君に読まれることはない。それでも時の流れに流された、私たちの思いを拾い集めていきたい。それは愛なのか、それとも罪なのか。時間は、まだある。文才もなければ、文学を深く嗜んだことも、久しくない私だが、この物語は、この手で紡いでいきたい。それが、今、私にできる唯一のことだと信じているから。そして、それが出来なければ、僕らの人生の物語はきっと消えてしまうのだろうから。

 君と出会ったのはいつの頃だっただろうか。大学3年の夏、その日はいつもより暑く、無機質なビルが聳え立つ東京に蝉の声が鳴り響いていた気がする。振り返ると、額から流れる汗の一筋すら記憶の中で鮮明に再現される。それは、まるで神話のように、どこか象徴的で美しい思い出のように、まるで救いのような神秘的な情景だった――。

* * *

 昼前の授業が終わり、講義室から大勢の学生たちに紛れて、私は食堂に向かっていた。「なんて暑いんだ」とつぶやき、空を見上げると深い青に襲われた。校内を包み込む学生たちの騒音に、私の声はまるで世界に存在していないかのようにかき消されてしまった。
 足取りが遅い僕の後ろから、甲高い声で「佐藤!」と呼ぶ声がする。
「「そんなに、たらたら歩いていたら、学食が無くなってしまうぞ。」
「なんだよ、岩田か。こんな日にお前を見ると、暑苦しいな。」
「そんなことを言って、俺がいてくれて助かっているところもあるんだろ?つれない奴だな。」
 確かに、僕は友人が多い方ではない。いや、むしろ、ほとんど人と群れることはない。岩田のその一言は、私の触れられてほしくはない事実を、容赦なく指摘してくる。いつものことだが、少しだけ心は痛む。しかし、岩田はそんな僕の感情に何も気が付かず、話を続けていた。
「あ、そうだ。先月の模試の結果どうだった?返却されたんだろ、佐藤も。」
「いや、そうだったかな。」
「まじか、まだ届いてないの?谷口とかは、返却されてきたって言ってたけどな。まあ、送られてくるのも、少し時差があるのかもな。」
「で、岩田の結果はどうだったんだ?」と、僕は冷たく岩田に問いかけた。
「それがさ、過去最高の結果だったんだよ。合格圏内で、しかも上位1パーセントに入ってた。すごくない?今年は、予備試験で数点、足りなかったけど、来年は必ず合格だな。司法浪人とか、法科大学院とか、行きたくないしな。早く稼ぎたいし、てか、敏腕弁護士になって、丸の内とかに法律事務所構えたりしてさ、有名になるんだよ。」
 しばらく、僕は沈黙して、岩田の自慢話を聞いていた。その異様な雰囲気に気が付いた彼は、「で、佐藤はどうだったんだ?」と聞いてきた。「何が」と、冷たく返した。
「ごめん、ごめん。まだ返ってきていなかったんだもんな。でも、佐藤なら、いい成績に決まってる。模試には強いもんな。」
 僕たちは、2回目の司法試験に挑む法学部生で、つい数か月前に受けた試験は「不合格」だった。さらに直前の模試では「合格圏内」だった私は、その〝予言〟を見事に外して落ちたのだ。しかも、岩田よりも点数が低く、それから私は岩田には冷たく当たっている。これだけを聞くと、「嫉妬してんのか」なんてからかい交じりの岩田の声が聞こえてきそうだが、そういうことではない。いちいち、人の癇に障る言葉を投げかけてくる岩田を許容できるほどの余裕がなくなったというほうが、僕としてはしっくりとくる。
「模試の話はもういいだろ。模試の結果が良くても受からない時はある。復習して、知識を身に着けるしかできない。」
「確かに、経験者の言葉は重いな。」
 ケラケラと響く岩田の笑い声が乾いて響いた。こんな会話を重ねていると、食堂に出来た列が進んでいて、注文の番が回ってきた。僕は、いつも通り一食250円のB定食を、岩田は上機嫌に一食800円もするA定食を注文していた。
「マジかよ、A定食なんて頼むのか。」
「へへっ、最近、良いこと続きだからさ、ご褒美さ。」
「ご褒美って、苦しいこととか、つらいことを経て頼むやつじゃないの?」
「細かいことはいいんだ。俺が機嫌がいいから、高いのを頼むんだ。」
 僕らは、定食を受け取った。ちなみ、B定食は、質素な野菜炒めで、A定食はとんかつにデザートがついていた。
 食堂はいつもの学生のグループで席が整然と決められているようで、話声で騒然としている異様な雰囲気だった。僕みたいに友人が少ない学生は、確かに居心地が悪い気がしてしまう。憎たらしい岩田であっても、一人で食堂で食べるよりはマシではある。そんな思いを抱くと、間髪入れずに「俺がいてくれて、助かっているところもあるだろ?」と岩田の声がリフレインする。僕の機嫌は、また悪くなった。
 そして僕たちは、柱の陰の四人掛けのテーブルに腰を掛ける。岩田は話し始めた。
「いや、この学食は賑やかすぎて、俺らみたいなしがない資格受験の学生は肩身が狭いな。来年は4年生だし、就活で夏休みどころじゃなくなるだろ?そしたら、思いっきり遊べなくなるよな。これが、人生で最後の謳歌できる夏休みなんだ」
「何をいまさら。司法試験が余裕なら、遊べばいいんじゃないのか?模試の結果もよかったんだから。」
「そうだよなあ……。」
 岩田は、僕の予想に反して、神妙な面持ちになった。一瞬、心配になって、僕は「どうした?」と言葉を掛けた。
「それがさ、俺にもついに春が来たんだ。」
「はあ?何を言い出すかと思えば、そんなこと。試験の結果が良かったから、調子こいてふざけたことをいってるのかもしれないけど、春はとっくに過ぎた。今は暑苦しいほど、夏だった。」
「そういうことを言ってるんじゃなくてさ。比喩だよ、比喩。言うだろ。人生の好機が来たら、春が来たって。」
「そうだな。確かに、言うかもな。模試の結果が良くて、そんなに浮かれるか。さっきも言ったが本番じゃない。練習で成功しても、その日にうまくいかなければ仕方ないだろ。」
「そうじゃなくて、俺に彼女ができたんだ。」
「はあー?。その話、本当なのか。冗談だろ。彼女なんて作る暇がどこにあるんだよ僕らに。」
「俺らじゃないな。お前には、興味を持つ心の余裕がないだけだよ。俺は違う。」
「本当に感じが悪いな、岩田。」
「お互い様だろ。佐藤も十分に感じは悪い。」
 まただ。岩田は、勝ち誇ったかのように右の口角を挙げている。これは、岩田の癖。何か、僕に聞いてほしいことがあると、いつもこの表情をする。
「で、どんな子なんだ?」
「あれ、聞きたいのか。ゴシップは、佐藤のような堅物でも興味を引くのか。」
 ため息交じりに、「ああ、聞きたい。聞きたい」と何の感情も入れずに答えた。
「そうかー。聞きたいか。仕方がない。佐藤がそこまで言うなら、話してあげよう。」
「いつでもどうぞ。こちらは、いつでも準備はできてるぞー。」
「それが、文学部の川北さん。川北真紀子さんと付き合うことになって。佐藤は知ってるか、川北さんのこと?」
 知ってるも何も、この学年の一番の有名人と言っても過言ではないし、知らない人のほうが少ない。川北真紀子さん、確か去年、準ミス帝都になった人で、もうすでに読書モデルみたいなな仕事をしているらしい。ミスコンの上位に入賞した子はアナウンサーやら、ファッション・モデルになった先輩も多い。なんで、そんな子が岩田の彼女に?天は二物を与えずとは言ったものだが、岩田を見ていると、その言葉は嘘なんじゃないかと思えてしまう。そんなことが頭に過ると、岩田の〝あのしたり顔〟が視界に入ってくる。
「あんな美人が、お前に声を掛けたって?そんなことがあっていいのか?こんなにも嫌味で、ナルシストで、それに……。」
「ちょっと待て、それ以上を聞くのはつらい。それ、ただの悪口になってないか。」
「ごめん、ごめん。ムカついて、つい本当のことを。」
「本当のことって、そんな風に俺のことを思っていたのかよ。傷つくわ。」
 岩田の表情がすこしだけ強張った。彼は、とんかつの切れを何枚か口に頬張った。
「で、そんな出会いだったんだよ。」
「うるせ。俺のことをナルシストとか、悪口言うやつに、そんなことを言うかよ。」
「ごめん、ごめん。そんな拗ねないで、教えてくださいよ。」
 私が申し訳なさそうに遜った態度を見せると、岩田はまんざらでもない様子だった。
「仕方ないな。そんなに聞きたいなら、教えてあげないこともないけど。」
 内心では「お前が聞いてほしいんだろ」と突き放した思いが込み上げてきたが、私はその思いを押し殺して、「聞きたい。聞きたいから、話してくれよ」と言葉を掛けた。する、岩田は彼女との馴れ初めを意気揚々に話し始めた。まあ、単純な奴なところは、可愛げがあるところではあるんだが……。
 そんなことは、どうでもいい。岩田と川北さんの出会いは、そんな勿体ぶるほどのこともなく、合コンで出会ったらしい。文学部と法学部の学生を集めて行われた合コンで、そのなかでどうも意気投合したことを、岩田は「彼女からの一目惚れ」と呼んでいる。「こないだの司法試験、あと数点で受かってたんだよ。もう一年もあれば絶対受かるね」とか、「将来は大物弁護士で、政界にも進出することも夢じゃない」とか、そんな調子のいいことを言ったんだろうなとぼんやりと想像してしまう。そんな岩田に惚れるなんて、彼女も彼女だが、世間の女性は「優しい人がいい」とか、「まじめでしっかりした人がいい」とかいうけども、結局は少し優秀で、少しやんちゃな人に惹かれるんだなと幻滅した思いも湧き出てきた。と言っても、僕は女性に対して、幻滅できるほど立派な人間ではないのにな。同じ法学部の谷口とかは合コンに参加していたらしいが、そもそも私はまったく誘われてはいない。「彼女ができてよかったな」と一言、精一杯の祝福を言った。岩田は、右の口角を挙げて笑い始めた。
「今度の日曜日は、初めてのお泊りデートでさ。箱根旅行に行ってくるんだよ。もう俺の人生はうまくいきすぎていないか。」
 「はいはい。」と、僕は、自己愛に満たされたその言葉を受け流して、一食250円のA定食のご飯を黙々と口に運んだ。
「岩田君。ここにいたんだ。少し探したんだよ。」
 そう話しかけてきたのは、川北さんだった。ギンガムチェックのシャツに、ピンクのスカート。まるでモデルで、女優のようなスタイルで、はっきりとした顔立ちは、それだけで「美人」を表しているような人だった。食堂にいる男性の視線が集まってくるのを、肌で感じる。
「次の授業まで、少し時間があるからさ。今度の旅行の予定を立てない?」
「確かに、何にも決まってなかったもんな。賛成。そうしよう。今、ご飯が食べ終わったところだから。」
 彼女の目が微かに私のほうに向いた気がした。そのささやかな動きにも気が付いた岩田は、「あっ、これ、友だちの佐藤薫ね」と雑に紹介された。
「佐藤です。岩田と同じ法学部で。」
「よろしくお願いします。文学部の川北真紀子です。いつも話だけは聞いています。ごめんなさい。二人で食事中だったのに。」
「いえいえ、くだらない話だったので。全然、岩田を連れていってください。」
 岩田は合掌ポーズで謝罪のジェスチャーをしてきたが、あっという間に食器を返却口に返して席を後にした。岩田と川北さんが歩く姿が見えなくなった後、私のところには何の視線も集まらなくなった。どこまでも自分の生きやすさを探求するような、あの軽快さが僕にもあったらなと思ってしまう。その時、僕の心を支配したのは、確かに「妬み」だった。そんなことは、口が裂けても岩田にはいうことはできない。

 午後一の授業のチャイムが校内に響いた。水曜日の午後は決まって、大学の図書館で受験勉強に勤しむ。民法改正に伴って新しくなった「判例六法」、池上塾が出版しているいくつかの参考書が並べてはみたものの、脳裏に浮かぶのは、岩田との会話だ。女性にモテた経験もなければ、大した才能も能力もない。20年間の人生を振り返っても、「努力が正当には報われていない」と思えるほど、遠回りばかりをしているような気がしてならない。「はあー」と深いため息をついて、突然ゆっくりと流れる午後の時間の中を、僕はさまよっていた。
 ふと、窓際に目をやると、一人の女子学生が椅子に座って分厚い文庫本を読んでいた。図書館を囲む木漏れ日に照らされた彼女の姿は、なんとも言えない神々しさが宿っているように感じた。白いブラウスに淡い青のスカート、肩にかかる髪が緩やかにウェーブしている。ここまで女性の見た目が詳細に脳内に入ってきたのは、いつぶりだろうか。いや、初めてかもしれない。アイドルやら、女優やらの顔を見たとしても、それは誰かの「欲望の幻影(イドラ)」で、美しさの裏には必ず誰かの思惑がある。自分が何者でもないことからのひがみかもしれない。ただ、彼女は違う。僕たちは、まったく別の世界を生きている。穢れを知らない世界に生きている。そんな気がした。
 机に投げ出されたペンを持ち直して、参考書に向き直しても、彼女に目が奪われる。衝動的な「何か」が、僕の心に何度も何度も訴えかけてくる。
「いまだ。いまだ」
 精一杯の理性で抑えても、その衝動はだんだんと強くなっていく。そんな葛藤がしばらく続くと、彼女は僕の視線に気づいた。紅潮する私の顔を見て、彼女は戸惑い、手元の文庫本を閉じ、席を立とうとした。青いロングスカートがひらりと揺れた。その瞬間、時間が少しだけ歪んだ。

「ほかの人も自分とまったく同じように、それぞれ個人的に複雑な条件にとりかこまれているなどとは、夢にも考えないものである。」

 「終わった。」――。頭が白くなっていき、血の気が引く。私の顔は紅から青へと変わっていく。彼女の手元にあった本がトルストイの『アンナ・カレーニナ』だからと言って、その中のセリフを語り掛けるなんて、どうかしている。恋愛経験が乏しいとはいえ、初対面の女性に話しかけるには、もう少しあるだろうが。彼女は、何が起きているのか、わからないような表情で、僕を見つめている。
「ナンパ……ですか。」
「いや、いや、滅相もない。ナンパなんて。いや、君が魅力的じゃないというわけじゃなくて、なんというか。君の読んでいた『アンナ・カレーニナ』、僕も昨日の夜読んでいて、その中のセリフがさ。なんというか。」
 嘘だ。昨日、トルストイなんて、ほとんど読んでいない。『アンナ・カレーニナ』だって中編ぐらいまでしか読んでいないし、詳しいあらすじも記憶していない。とっさに、『アンナ・カレーニナ』の名言が、僕の口から出たのが不思議でならならなかった。
「申し訳ない、気持ち悪いよね。気にしないで。本当に。」
「いえ。少しビックリしてしまっただけで。トルストイ、お好きなんですか?」
「えっ、いや、好きというほど、知らないんだけど、なんか、心に残っている名言がちらほらとあって。それが、頭に残っていたというか。」
「そうなんですか、私は、観劇してハマってしまって。原作も読んでみたいなあ、なんて。もう、就職活動に精を出さないといけない時期なのに、のんきですよね。」
「もしかして、3年生?」
「そうです。文学部です。」
「僕は、法学部の3年の佐藤薫です。」
「あっ、朝倉香織です。」
「名前聞くなんて、本格的にナンパみたいだね。すまない。」
「いや、そんなことはないですけど。」
 何を話しても、地雷を踏みぬく気がしてならない。ここは、もう恥を忍んで撤退が一番、かもしれない。「じゃあ、これで。」と、自席に戻ろうとしたら、彼女が再び、口を開いた。
「あの、少し話相手になってもらってもいいですか?」
 考える前に、僕は「はい。」と答えていた。

(②に続く)


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