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長編小説「仕合せの残り香」③

③までのあらすじ
 図書館で出会った主人公・薫と、同じ大学の文学部に通う香織は、おしゃれな喫茶店に赴き、話をすることになった。女性との付き合いがなかった薫は戸惑っていたが、時間が経過するにつれ、不思議を自分の「葛藤」を話してしまうほどに、心を開いていた。確かに、二人の心は通じ合った――そんな感覚だけを残して、それぞれは帰路に就いた。


(三)
 今日は、やけに天気がいい。リビングに差し込む光で、目が覚めた。昨日は、遅くまで、万年筆を握って、慣れない文章を書いていた。それもあって、肩も、腰もバキバキだ。
 大きく伸びをして、体に血流を巡らせて、意識がだんだんとはっきりしてくると、今日は、月曜日だということに突然、気が付いた。
 そう、月曜日は決まって、妻の見舞いに病院に行く日。しかし、その時はどこか心がふさぎ込んだ気持ちになることが多い。大きくため息をして、準備を始めることにした。
 玄関のポストを開けて、新聞紙を取り出そうとすると、昨日取り損ねたいくつかの書類が、ドサッと落ちた。「新型コロナワクチン接種のお知らせ」もの以外は、ほとんど何が入っていたのか、記憶にも残っていない。
「一体、何回打てば、コロナは収まるんだよ。」
 と、ぶつぶつ言いながら、台所のゴミ箱に捨てた。
 そんな朝のけだるさも、いったん外に出て、車を走らせてしまえば、病院までの道中は、嘘かと思うくらい気持ちがよかった。こんな日に、最後に妻と出かけることができればなんて、淡い期待を抱いてしまった。
 「佐藤香織」と書かれた病室に入ると、妻はやはり眠りについていた。妻の眠りを邪魔しないように、ベッドの横に、私は腰を掛けた。病室から見える景色もやけに眩しかった。そっと、窓を開けると、小春日和の爽やかな風が入って、カーテンが揺れた。
「ごめんなさい。起きてしまいましたか。」
「すみません。いつも寝てばかりで……。お忙しいのに、何から何まで。」
 君は、日差しに眉を潜めながら、私に小さく会釈した。「そんなことないですよ。」と言いながら、家から持ってきた着替えを病室の戸棚に入れた。
「気分はどうですか。」
「最近は、本当に何もする気がしなくて。ぼんやりと、窓の外を見つめているばっかりです。」
 一言ごとに、君の瞼は重力に導かれるように閉まっていこうとしている。
「僕のことは気にしないで、眠っていていいですよ。」
 私の言葉が届いたころには、君は、再び眠りについてしまっていた。安心し切った妻の顔を見ると、「元気のころと何にも変わらないのに。」と、妻が死へと着実に進んでいる現実が信じられなかった。万年筆とノートを取り出してみたものの、今日は、ほとんど書き進めることができなかった。

 妻の病室の扉を閉め、私は帰路に就こうとした。昼食の配膳の準備で騒がしくなっている廊下を、木村先生は飄々と歩いていた。
「あっ、佐藤さん。どうも、お見舞いですか。」
「はい。でも、ほとんど起きてくれなくて。」
「そうでしたか。症状が進むと、寝ていることが多くなりますからね。」
「こんないい天気の日に、最後くらい一緒に出掛けたりできたらな、なんて思ってしまいますけどね。」
「佐藤さん、残念ながら、新型コロナがまだ流行していますし、それは……。」
「分かっています。その状況は、分かっています。叶わない願いなのは、十分わかっています。そんな希望でも、僕にとってはないよりマシなんです。」
「すみません、無神経なことを言ってしまいましたね。ただ、私は、佐藤さんの自身のことも心配しています。お仕事もお忙しいですから、本当に無理はされないでくださいね。ここからが大変ですから。」
 木村先生は、真面目で、優しい。しかし、その純朴な配慮が、今の私には、少し痛い。早く病院を後にして、心の隙間を埋めるべく、午後は仕事で頭を一杯にしよう、と決めた。

 深夜、自宅に向かう車内は、大きな雨音に包まれた。朝とは一転、天候が大きく崩れた。密室に一定のリズムを刻む音がなっているのは、少し新鮮に感じた。自宅と職場、そして妻の病院の行き来で、大体は一日が終わる。テレビも見なければ、誰かとの会話もなく、そのままベッドで眠りにつくことがほとんどである。
 そして、私の住む部屋には、時計がない。掛け時計も、置時計もない。そして、持っている腕時計は、すべて止まっている。いや、止めている。妻の命が、秒針が進むたびに削れていく気がするから、時計を止めた。こんなことをしても何の意味がないことは分かっている。時計を止めても時間は止まらないし、手で針を動かしても過去に行くことも、未来がやってくることはない。そんなことは分かっているが、分かっていながらも、私は祈る気持ちで時計を止めてしまう。
 しかし、皮肉なもので、時計がなくなると、人間はより正確に時を刻むように行動し始める。どんなにあがいても、人間は時間の縛りからは逃れない。
 車を駐車場に止めると、一日の疲れがピークに達した。マンションのエレベーターに乗り、自宅の扉までのわずか5分程度の道のりが億劫になる。目をつぶり、雨音がすこし弱くなったころ、「帰るか。」と決意して、車の扉を強く閉めた。

 今日は、めっきり眠りにつけない。瞼を合わせるだけなのに、なんとも言えないほど苦痛が押し寄せてくる。こんな時は、あきらめるに限る。一人では大きすぎるベッドから起き上がり、リビングに移動した。
 机の上には、コンビニのビニール袋が無造作に置かれている。食べる気力もなく、未開封のままの弁当が入っている。ここ数日、その状態で賞味期限が切れて、捨ててしまったことが何度かあった。食欲はめっきりないが、見つけたならしょうがない。私は食べることにした。
 携帯で暇つぶしの動画でも見ようかと思ったが、表示される時間が嫌で、見る気がしなかった。ここまで神経質になっているのは、自分でも異常に感じる。解決の方法は見つからないし、その気力も残っていない。
 こんなに落ち込んだのは、いつ以来だろうか――。
 2度目の司法試験を受けたあの時、私は、世界から拒絶されているように感じて、それに、自分の生きる道が全く閉ざされた気がして、生きた心地はしなかった。
 テーブルに置いてあった「あの文章」を手繰り寄せて、読み返した。
 書き残しておかないといけない感情が、湧きあがってきた、そんな気がした。書きなぐっているうちに、いつか眠気がやってくるだろう。三割くらいしか手つかずのお弁当をわきに置き、お箸を、万年筆に持ち替え、再び文章をつづり始めた。

* * *

カチ、カチ、カチ――。
デスクの上に置いたセイコーの置時計の秒針が、ひどくうるさくなっている。あと五分。蒸し暑いアパートの一室で、額に汗を溜めながら、ノートパソコンを開き、祈るような気持ちで待っている。
何度も法務省のホームページを更新している。画面が一瞬、白くなった。

【司法試験の合格発表】

 手が震えている。いよいよだ。カーソルを合わせて、ページに飛ぶと、合格番号がずらりと並んでいる。「00899、00899。」とおまじないのように自分の受験番号を唱えながら、一列ずつ丁寧に番号を探す。自己採点では、十分に合格点に達している。多分、いけている。大丈夫だ。

 「ない」

 自分の番号がない。何度も見た。データも何度も開き直した。でも、00899の番号がない。まただ。いつもそうだ、僕の人生は順調にはいかない。遠回りをして、何度もチャレンジして、やっと人並みか、それ以下なんだ。自己嫌悪の思いが、最高潮に達した。
 「なんでだよ。」
 机には、直前に受けた模試の結果が置いてある。「合格水準」と書かれた、髪を何度も破り捨てた。怒りを何にぶつけても、何も変わらない。受け入れるしかない。そう思うと、この追い込まれた状況は、これまでの人生で何度も直面してきたように感じた。
「これが、僕の実力か。」
「やっぱり、遠回りなんだ。」
「努力は、報われなかった。」
「明日から、どうする。」
「来年も合格を目指すか。」
 次々と聞こえてくる自問自答の声は、スマホの着信音でかき消された。
「はい。」
「おお、佐藤。」
 その電話は、甲高い声の岩田だった。
「なんだ。」
「なんだはないだろ。合格発表は、どうだったんだよ。受かったか?」
 その声色の時は、いつもいい知らせの時だ。もはや、岩田の結果は聞かなくても分かる。
「落ちた。」
 これでどうだ。お前のデリカシーのない性格でも、少しは申し訳ない気持ちにもなるだろう。どうだ。もうこれ以上、私の心の傷に塩を塗り込まないでくれ。
「えっ、まじかー。ドンマイ。模試では合格水準だったのにな。やっぱ、本番になるとどうなるか分からないな。」
「そうだな。」
「俺は、受かった。」
「知ってる。お前の声色ですぐに分かった。」
「洩れちゃった?」
「あのな、少しは気を遣え。こっちは落ちてんだよ。」
「なんで?」
「はあ、なんでって……」
「いやいや、だって、今回は落ちたかもしれないけど、来年は上位合格者に入るだろ?なんかの運が悪かっただけだろ、試験当日に下痢に悩まされるとか。この時くらい、俺にも調子に乗らせてくれ。」
 私は、すぐさまに電話を切った。「なんて奴だ。」と、口に出さざるを得なかった。いつも効率よく、岩田は、私が望む結果を取っていく。効率よく、何も捨てずに、何もかもかっさらっていく。それが、なんだ。私が持つ人のように、劣等感の対象のように、そのセリフを吐き捨てるのか。岩田に憤っているのか、それとも自分自身に憤っているのか、だんだんと分からなくなってきた。
【すまない。さっきは、カッとなった。合格おめでとう】
 岩田に、メッセージを送った。日が暮れてしばらくしてから、「気にするな。」の返事が来ていただけだった。

(④へ続く)


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