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知的思考の活性化ー私が本を読む理由

 ドイツのビジネスホテルで最初に炭酸水に出会った。チェックインして部屋に入り、スーツケースを置いて部屋の備品を確認する。
 鏡台にホテルガイドはあったがドイツ語はわからない、そしてそのガイドを押さえつけるように2本ペリエがサービスで置いてあった。実は、それまで無糖の炭酸水というのは飲んだことはなかったのだ。
 EUの大国ではこれが文化なのかと思い、それを飲んでみると水だけの無糖感にシュワシュワが口の中ではじけ、潤うというより、口の中が活性化される気がした。気に入って、帰国後、無糖炭酸水を愛飲するようになった。10年経つが、今では500mlのペットボトルを夏に一日2本以上開けてしまうくらい飲んでいる。
 タイトルとなんの関係があるのか?と思われるだろうが、私がある特定の本=知識本を読む理由がこれだ。
 自分の創造思考回路は、ほっておくとすぐに固まってしまう。知的刺激が無いと出会うもの聞くものから連想するものが陳腐でオヤジギャグのネタのようになってしまう。まれに、あれをこうしてああしたら見たいな思いつきも浮かんでも文書にしたり口に出す前に消えてしまう。そして思い出せなくなる。
 日々新しく見ること、聞くことは、自分の遊び場を作り出すための大事な素材。でもそれを受け入れるだけでは、だめでそこに吸着して泡を立てるための炭酸ガスのようなもの必要なのだ。そう、それが自分にとっての知識本。古典的にはドーキンスや、ドラッカー、面白かった。が、それはそれでおしまい。次に読む本を探す。これも楽しみ。
 読む本は、新書の新刊を確認したり、雑誌の書評をチェックする。だいたいその手の本は傾向が一致していて導入部は、著者の語る題材が一般的にはどんな受け入れ方をしているのか分析、中盤から著者の視点から違う像で語られ、最後にその見方の今後の活かし方が論じられる。納得性が優れた本も多い。ただし、それを鵜呑みにしたり、信奉したりはしない。物の見方の多様性の一つとして受け取る。
 観点の多様性が受け入れられれば、さらにもっと別の泡ならぬ見方の多様化、アイディアが沸々と沸いてくるのだ。
 皆さんは国語の読解問題で回答して嫌な思いをしたことがないだろうか。義務教育時代に国語で文学的に評価の高い小説が試験問題用に切り出され、文書の前後関係で、何が何を指すのか、筆者は何が訴えているのかを問う、あれだ。あれこそ、他人の意図を読み取る訓練になりこそすれ自分の発想、考え方の多様化を阻む訓練のように感じる。
 これからも、当たり外れはあるだろうが私はこの刺激を受け続ける。そして、この文書も皆さんの考え方となる炭酸ガスの元に少しでもなってくれれば幸いです。

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