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村上春樹訳で読む「グレート・ギャツビー」
スコット・フィッツジェラルドの『グレートギャツビー』を読んだ。
『グレートギャツビー』は1920年代のアメリカを描いた名作で、映画化や舞台化もされている作品。
昔の恋人が忘れられない男性が、結婚してしまった彼女を取り戻すために手を尽くすも上手くいかず、最終的に殺されてしまう。
ストーリーでいえばこれだけなのに何故か心惹かれる作品だった。
アメリカの歴史、フィッツジェラルドの人生を知ればもっと深く読み込めるのだろうが、今の自分では理解しきれない部分が多くてもどかしさを感じる。ただ、今の自分が感じたことを大切にしたいので書き残しておこうと思う。
物語の語り手は、ギャツビーの隣人であるニック・キャラウェイ。ニックから見たギャツビーの人物像が描かれている。
ギャツビーは昔の恋人とやり直すために手を尽くすのだが、その行動は全て昔の恋人デイジー中心。一言で表すなら「過去の恋人に執着する成金」。過剰な執着心は正直ちょっと気持ち悪いし全く好感は持てない。しかし何故か心を惹きつけられるのは純粋さと努力家としての一面があるからではないかと思う。
ギャツビーはデイジーに出会う前から、貧しい境遇から抜け出し理想を実現しようとする強い意志と努力があった。この姿勢には本当に感服する。生まれた環境を嘆くことは誰でもできるけれど、それを変えられると純粋に信じて努力を重ねることができる人は少ない。彼の死後、父親が彼の努力を綴った本の一部を誇らしげに見せる場面は、胸を締め付けられるような思いがした。
一方で、デイジーとの再会時にはあまりにもの緊張で挙動が不自然になってしまうのだが、その様子は人間味があり親近感を覚えた。
純粋さゆえに、過去を取り戻せると信じ続け理想を追い求める姿。ここに尊敬と憧れを感じて心惹かれたのかもしれない。
生前の華やかさとは対照的にギャツビーの死後は非常に寂しいものだった。ギャツビー家でのパーティーやデイジーとの再会が美しかっただけに非常に切なく悲しい。でも、その死はどこか美しさも感じられた。
ギャツビーの死後もずっと寄り添っていたのはニックだけだったが、そのニックも当初、
「人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべき」という気持ちから寄り添っていた。この表現には少し淡白な印象を受けたが、一方で熱心に弔問客を探す様子からは熱量を感じた。ニックの元々の人柄もあるが、死後ギャツビーに寄り添う中でその存在がニックにとって偉大なものへと変わっていった結果のように思う。
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でも、まだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
未来への希望と手に届かない現実とを対比させるようなこのラスト。非常に前向きな表現だと思う反面、自分の中で上手く消化しきれなかった。月日を重ねれば感じ方も変わるかもしれないので一旦はこのまま飲み込むことにする。
今回読んだのは村上春樹訳。
正直、村上春樹の文章には苦手意識があったが、この訳でなければここまで思い入れを持てなかったのではないかと思うくらい心に響いた。どの文章も流れるように美しくて特にラストの文章は素晴らしくて何度も読み返した。
あとがきも圧倒されるような熱量があり、村上氏の『グレートギャツビー』に対する思い入れの深さがそのまま翻訳にも現れているように感じた。
ニックの心に刻まれた偉大なギャツビーのように、村上春樹氏が作品を敬愛したように、私の心にもこの作品、そしてギャツビーという人物が深く刻まれた。